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Wa☆Daフォトギャラリー

 旅紀行日本の裸祭り
2018年10月19日改訂

今 日

昨 日

♪篠 笛

紅蓮の火赤褌どもが送舟   北舟

拡大写真(2250x1600)678KB

The burning flames like a red lotus,
the ancestor-sending boat by naked guys of red loincloth.

2003年5月10日制作

燃え上がる流舟 / 北上川
紅蓮の炎を上げて燃える送舟 / 北上川(岩手県盛岡市)

2/7

劇場訓蒙図彙の挿絵

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ふんどし談議 2/2

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■■■ 082 
facebookフレンド2200人!
 ■■■
 
  ▼ 平成24年(2012)2月5日に世界最大のSNS / Social Networking Service として知られるフェイスブック facebook https://www.facebook.com/yoshio.wada.12?ref=tn_tnmn を始めて約25ヵ月となったが、平成26年(2014)3月30日、facebook フレンド(FBフレンド)が2200人となった。100人になるまで23日、200人まで更に20日、300人まで18日、400人まで19日、500人まで14日、600人まで9日、700人まで15日、800人まで37日、900人まで58日、1000人まで26日、1100人まで26日、1200人まで30日、1300人まで23日、1400人まで13日、1500人まで15日、1600人まで37日、1700人まで28日、1800人まで16日、1900人まで21日、2000人まで45日、2100人まで45日、そして2200人まで117日かかった。  
  フォロワーが824人いるので、私の頁の更新は、2200+824=3024人に連絡される。2100人から2200人になるのに4ヵ月ほどかかったが、これは、顔写真のない人やゲイで男性の局部の写真など破廉恥な写真を掲載している人を拒否したせいである。友達に承認待ちが31件あるが、顔写真のない人や顔写真が動物など本人を特定できない人ばかりである。顔写真が変われば承認しようと思い、保留している人たちである。これから先も増えて行くことだろうが、審査をシビアにしているので、増加のペースは激減している。
 

facebook フレンド2200人!

facebookフレンド2200人!

 
   
 私のfacebookでは、Wa☆Daフォトギャラリーの写真集のエッセンスを掲載しているが、現在力入れている裸祭を主体とする日本の裸褌文化を世界に向けて発信している。簡単な英文の説明をつけているので、何を撮したものか分かるようにしているので、九割が外国人という構成になっている。

 その内訳は、政府の規制を受けている中国を除く、韓国、台湾、フィリピン、タイ、インドネシア、カンボジア、マレーシア、シンガポールなどのアジア諸国、中近東、ヨーロッパ、ソ連、アメリカ、カナダなど多岐にわたっている。英語が中心だが、私には理解できないアラビア語や韓国語なども表示される。

 彼らの関心は大半が裸褌文化で、私の発表する褌姿を見てカルチャー・ショックを受けているようだが、日本男性の下着であるユニークな褌の魅力に惹かれる人も多い。マレーシアの政府高官のA氏には、国際郵便(エアメール)で日本製の六尺褌・越中褌・褌生地をお送りした。一週間ほどで無事到着したようで、調達費用はpaypalでお送りいただいた。彼は、六尺褌が気に入っているようで、奥様公認で褌を下着にしてエンジョイしているという。彼の言によると、マレーシアも高温多湿なので、褌は涼しく健康的で、ちょっぴりセクシーなんだという。最近では、黒猫褌が気に入っておられるようで、マレーシアにいて調達できたようである。

 また、台湾の台中市でラジオのMCをしているB青年にも褌を国際郵便(エアメール)にて進呈し、彼は喜んで愛用している。彼の褌姿の写真まで送ってきた。台湾にも褌を売るサイトができたようで、彼の話では、日本から大量に仕入れた褌を再販しているらしい。1本2000円ほどになるが、手間賃や郵送料を考えれば、リーズナブルな価格だという。
 
   
 なにしろ、facebook 参加者は偽名や氏素性の分からない人たちであふれているので、デメリットも多いことは事実である。 FBフレンドの中には、ゲイの方々が多数存在しているようで、彼らのページを覗くと、男性同士が交歓している写真が掲載されていたりする。ロシアではゲイは犯罪として規制されるほどの差別を受けているという。逆にアメリカでは男同士の結婚を認める州もある。私はゲイに対する偏見は持たないが、時々、勃起した○○スの写真を送りつけてくる不届き者がいて、即刻ブロックし、私のサイトにアクセスできない極刑を科している。(笑) そして、文頭に次の一文を置くようにしている。
 
 

I am not gay.

 

 
■■■ 081 国際社会に認知された裸褌祭「鐵砲洲寒中水浴」! ■■■■

 
 
▼ 2014年2月7日(金)、日本の裸祭り〈 第176集 〉(98種)鐵砲洲寒中水浴'14が完成した。この作品は、平成26年(2014)1月12日(日)東京都中央区に鎮座する鐵砲洲稲荷神社で開催された第59回寒中水浴大会の模様を撮影したものである。
 
 何といっても今年の画期は、イギリスの一流紙 THE TIMES に日本の裸褌文化を彷彿させる鐵砲洲寒中水浴の写真が大きく掲載され、国際的に認知されたことである。これは初春にふさわしい快挙であり、誠に目出度い!  
〜翌日イギリスの一流紙紙 THE TIMES に掲載〜

〜翌日イギリスの一流紙 THE TIMES に掲載〜

拡大写真(2000X1840)1.44MB

 
 タイムズ紙に採用された写真を撮影したクリストファー・ジューさんは、internetで調べてみると、1983年に南カリフォルニアに生まれ、2005年より東京に在住する31歳の男性カメラマンだった。当初 IT企業に勤めながらも本来の夢・写真家への道を切り開いた。クライアントにはディズニー、ABCテレビグループ、フォックスネットワーク、ビタミンウォーターなど。現在は旅行出版社、ライフスタイル、エンターテイメント、自動車会社、テレビネットワークなどに作品を提供しているという。  
 写真下の報道陣の中にクリストファーさんがいるはずで、鐵砲洲囃子が流れる神楽殿と石鳥居を背景に名作を切り取った彼の手腕は大したものだと思う。  
鐵砲洲寒中水浴 〜中に入り込んできた報道カメラマンたち〜

鐵砲洲寒中水浴 〜中に入り込んできた報道カメラマンたち〜

拡大写真(2400x1600)810KB

撮影:小林豊一

 
 
  鐵砲洲十年の春や新ふどし  北舟 

てっぽうず ととせのはるや しんふどし

Teppozu the tenth beginning of spring, all fundoshi loincloths brand-new.

 
 
鐵砲洲寒中水浴'14名作アニメーション

「鐵砲洲寒中水浴'14」名作アニメーション

                     拡大写真/傘寿水浴の羽場左近さん(80歳)と一緒に水行 (2000x1500)779KB           撮影: 伊藤秀行

 
 

■■■ 080 ハワイの裸褌文化/ビショップ博物館 ■■■■

2013年6月24日(月)ハワイはオアフ島ホノルルにあるビショップ博物館を見学。常夏のハワイにおいて先住民族たちは西洋文化が流入し て裸で暮らすことが野蛮だと洗脳されるまで日本そっくりの裸褌文化を謳歌していた。男性は褌一丁、女性は腰布または腰蓑のトップレスで暮らしており、フラは、男女とももそのままの格好で踊っていた。
玄武岩を積み上げて造られたビショップ・ミュージアム本館/ホノルル
玄武岩を積み上げて造られたビショップ・ミュージアム本館/ホノルル

パノラマ写真(3000X1350)750KB

 

戦いの神クー  K

ū / Kū-ka-ili-moku / Kūka'ilimoku
 
  ▼ ハワイホール一階には、日本の前垂れ式六尺褌とそっくりのマロ Malo (褌)をした戦いの神クーの木像が飾られていた。世界で三体しか現存しないという貴重なもので、他の二体は、英国の大英博物館と米マサチューセッツ州のピーボディ・エセックス博物館にあるという。3体ともンの木で作られており、展示像は タ Tapa (ハワイ語でカ Kapa )のマロ(褌)を締めている。  
   17年前にもこゝを訪れたが、そのときはクーは褌を着けていなかった。ポリネシア・文化センターでも褌はしていなかった。褌をして展示するかしないかで議論があったようで、褌の布が像を傷つける恐れがあるとか、子孫を残す大事な所はやはりつけた方がいいなどと議論があったようで、結局、かつてのハワイ男性と同じ格好をさせることになったらしい。  
   ハワイの土産物店や、最近ではグアムなどでも売られているTiki 像は、たいていクーの像をモデルにしたもので、見るからに恐ろしい形相をしている。ただし、褌はつけていない。(笑)  

 カバの褌(マロ)をした戦いの神クー像
 カバの褌(マロ)をした戦いの神クー像

拡大写真(3000X2200)557KB

  ▲▼ ハワイの四大神とは、(1)戦いの神であり、山や海の神でもある「クー  」、(2)農耕の神、豊饒の神である「ロノ Lono 」(3)万物の根源、生命の神である「カネ Kāne 」、(4)海の神、死者の世界の神である「カナロア Kanaloa 」の4神で、これらの神々は古代ハワイの人々の生活と結びついた存在で、昔のハワイの暦(太陰暦)では、新月から数えて毎月3日〜6日がクーの日、24日〜26日がカナロアの日、27日がカネ、28日がロノの日、4日が神々共通の日と定まっていた。  
   このうち、国を護る最も大事な神が戦いの神クー(クー・カイリモク) Kū / Kū-ka-ili-moku だったが、1820年、それまでハワイアンの社会規範として守られてきた「カ/タブー」という制度が崩壊した後、像は他の神像と共に置き去られ、あるものは海外に持ち出され、地に埋もれて朽ち果てた。ビショップ・ミュージアムが所有するクーは、何者かがボストンに船で運ぶところをある宣教師が発見し、ハワイに戻されたものだという。  
   戦いの神クーは、ルアキニタイプ(人身御供ひとみごくう)といわれる生贄(いけにえ)が必要なタイプのヘイアウ(祭祀場)に祀られていた。オアフ島最大のプウ・オ・マフカ・ヘイアウ Pu'u O Mahuka Heiau は、ノースショアーのワイメア湾を望む神聖な丘の上に位置し、ハワイアンにとって、神々への崇拝と儀式に使われる神聖な場所であり、かつては戦いの神「クー」が祀られていた。1792年、バンクーバー船長の部下の船員たちが生け贄にされたことで有名で、生垣には奴隷が人身御供として埋められたという。  
カメハメハが叔父からもらった戦いの神「クー Kū-ka-ili-moku 」のフェザー・イメージ(羽毛像)〈実物〉
カメハメハが叔父からもらった戦いの神「クー」のフェザー・イメージ(羽毛像)〈実物〉

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▲ 写真上の羽毛で作られた像は、カメハメハ一世が叔父からもらったクーの実物で、この戦いの神と共に激しいバトルを戦い抜き、遂に勝利してハワイ全島を統一したのであった。
 カメハメハの叔父で、当時のハワイ島の王であったカラニオプウが息を引き取るに際して、その遺言でハワイ島そのものは息子のキワラオに譲ったものの、主神であったクー・カイリモクは、見るからに強く、将来の見込みもありそうな甥のカメハメハに譲ってしまった。
 そのことに腹を立てたキワラオは、カメハメハに戦いを挑むが、逆に簡単に敗れてしまい、ここからカメハメハのハワイ全島統一に向けての戦いが始まったという。
▼ 写真下は、1980年マウイ島カアナリの戦いを描いたものであるが、兵士たちは殆どマロ(褌)一丁で戦っている。常夏のハワイでは、年中マロ一丁で生活できる環境であり、日本と同じような裸褌文化が定着していた。貴重なタロ芋畑の中の激しい戦いは、右側が優勢で、赤いケープ姿がカメハメハ1世なのだろうか。
マウイ島カアナパリの戦い(1980年)
マウイ島カアナパリの戦い(1980年)

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カメハメハ大王像  King Kamehameha Statue
  褌姿のカメハメハ大王像は全部で4体ありそのうちハワイには3体あるオアフ島ホノルルのアリイオラニ・ハレ(ハワイ州最高裁判所)前に立つ銅像( 写真中央)が有名だが、その像は2代目で、初代は、カメハメハ大王の生誕地であるハワイ島北端の町ハヴィ Hawi にある(写真左)。  
 「キャプテン・クックによるハワイ発見100周年」を記念して造られたオリジナルの大王像は、船で輸送中に海に沈んでしまい、急遽作り直され、1883年に奉納されたのがホノルルの像。その後、沈没船から引き揚げられた初代像は、1912年に大王の出身地ハヴィに飾られた。

初代/ハワイ島ハヴィ

2代目/オアフ島ホノルル
4代目/ハワイ島ヒロ
1作目/ハワイ島ハヴィ 2作目/オアフ島ホノルル 4作目/ハワイ島ヒロ

ハワイ道中記

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フリー百科事典ウィキペディア

代目/ワシントンD.C.(資料)

3代目/ワシントンD.C.(資料)
 大王像の建造の経緯を詳しく調べてみると、初代は1880年にカラカウア大王の命により大王の友人でありハワイアンの血を受け継ぐイタリア在住アメリカ人彫刻家 Thomas Gould に約1万ドルで依頼したもの。
 パリでひな型が作られ、ドイツで鋳型に流し込まれて完成したが、ヨーロッパからホノルルに送られる途中、フォクーランド諸島沖で船火事により沈没したが、幸い鋳型がまだ残されていたため、保険金が下りるとすぐに2代目が作られ、無事ホノルルに到着して奉納された。
 2代目がホノルルに着いて数週間後、初代がホノルルに到着した。というのは海から引き上げられてフォークランドのくず置場に放置されていた像を英国の船長が見つけ、カラカウア大王に売却したからである。この像は予言師の意見を取り入れて1912年にハヴィに安置された。
 3代目は、オリジナル像の鋳型を使ってローマで作成され、1969年、モロカイ島でらい病患者のために尽くしたデミアン神父像とともにワシントンD.C.の国会議事堂にある国立彫像ホールに飾られた。(写真左)
 4代目は、カウアイ島のプリンスビル(株)の寄贈で1963年に鋳造され、カウアイ島に置かれることになっていたが、地元民がカウアイ島だけはカメハメハ大王に征服されたのではなく、平和的に従ったとして、設置に猛反対し、長期にわたって紛糾したが、1997年に運送費と工事費に10万6千ドルをかけてハワイ島ヒロに設置して決着した。
  これら4体の銅像は、同じ鋳型から造られたものと思われるが、表情など、細部にわたっては微妙に違っている。

ふんどしの大王ここに薄暑かな  北舟

ふんどしの だいおうここに はくしょかな

Light heat of the summer, here is the great king of fundoshi lioncloth.

金色のマロ(褌)を締め、キヘイ Kihei (ケープ)とマヒオレMahiole (王冠)が誇らしいカメハメハ大王像/ホノルル
金色のマロ(褌)を締め、キヘイ Kihei (ケープ)とマヒオレMahiole (王冠)が誇らしいカメハメハ大王像/ホノルル

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  ▼ 昔のルア(格闘技)の師範は相手に掴まれないように体中の毛を剃りココナッツ・オイルを薄く塗っていたそのためルアの師範はオロヘ Olohe (毛がない)と呼ばれる。
 写真下は、ビショップ・ミュージアムによるルアの説明資料だが、マロ(褌)一丁で訓練する戦士たちの姿が描かれている。スキンヘッドの男がオロヘと呼ばれる師範である。まるで日本の江戸時代に六尺褌一丁で武術の訓練をする武士とそっくりであることに驚く。
マロ(褌)一丁でルアの訓練をするオロヘ(右)

マロ(褌)一丁でルアの訓練をするオロヘ(右)

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  ▼ 下の資料も平素、兵士たちの鍛錬法を図示したもので、カヌーを漕いだり、棒で谷を飛び越えたり、滝の上から飛び降りたり、重い石を担いだりして訓練した。全てマロ(褌)一丁である。
普段の鍛錬法
普段の鍛錬法

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カパ  Kapa

 
ワウケ Wauke 樹皮を打ち伸ばして作るポリネシアンの伝統的な布「タ」をハワイ語では「カ」と呼ぶ。男性のマロ(褌)はカで作られたものである。
ワウケの樹皮を打ち伸ばしてつくる布カパ
ワウケの樹皮を打ち伸ばしてつくる布カパ

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▲▼ 木製の押し型などで独特の模様をつけた草木染めも行われており、模様には日本の家紋のような家系のシンボル的な意味もあったという。
素朴な模様をつけたカパ
素朴な模様をつけたカパ

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モオモオ  Mo'omo'o / Wauke Stripes

 
▼ ワウケ Wauke は、アジアの熱帯、亜熱帯から日本にまで広く分布する落葉潅木。高さ4〜10mになり、大きなものでは15mに達する。幹や枝の表面は灰色がかった緑色で滑らか。ハワイでは古代より布や紙の材料として栽培されおり、日本でも和紙の材料として同じクワ科カジノキ属のコウゾが有名。
 ハワイアンがワウケの樹皮を叩き延ばして作った繊維は、モオモオと呼ばれ、皮のように丈夫で長もちし、暖かく、洗濯もできた。これがカと呼ばれる樹皮布で、褌やスカート、ケープ、毛布、死に装束などに使われた。
カパの材料となるワウケ樹皮「モオモオ」
カパの材料となるワウケ樹皮「モオモオ」

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  ▼ マロ(褌)をした男女像が展示されていた。かつての女性は、トップレスで、パレオ(腰布)かフラなどの際はモレ(腰蓑)を巻くだけの裸褌文化である。褌は腰布Loincloth の一種であり、男女ともに褌をしたとしてもおかしなことではない。日本でも海女(アマ)褌サイジがある。
マロ(褌)をした男女像
マロ(褌)をした男女像

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マカヒキ祭  Makahiki Festival

 
  ▼ マカヒキ祭は、古代ハワイにおける1年で最大の行事で、農耕・豊穣の神 ロノ神 Lono を祭神とする4ヶ月にも及ぶ祭礼だった。10月中旬、日没にプレアデス(マカリイ)が東の空に見えるようになるとカフナ Kahuna (司祭)によってマカヒキのはじまりが宣言される。  
   マカヒキの間は、戦争行為がカ(タブー/禁止)とされた。寺院での儀式も中止され、食事の用意などを除き、家作りやカヌー作り、カやラウハラ作りといった不急の仕事も休みになった。農作業は、4ヶ月間休みになった(農閑期)。  
   マカヒキには年貢が集められ、酋長に献納された。酋長の代理人が巡回するが、食べ物は腐りやすかったのでいったん年貢として収められるや否やすぐにカフナや酋長、同行者の間で分配されたという。  
   年貢を納めた者は、その見返りに酋長からの祝福(酋長を通じた神からの祝福)が授けられた。来年の豊作と、良い雨、そして諸々の幸福が約束された。年貢を納めた後は皆リラックスし、ゲームやスポーツ、踊りに興じた。とにかくこの4ヶ月間はカの厳しい掟から自由で、ハワイの人々にとって大いなる気分転換となった。  
   マカヒキは収穫祭でもあった。犬や鶏や魚の肉が捧げられた。ただし豚は、ロノ神の化身であるとされていたので用いられなかった。タロ、サツマイモ、バナナ、ブレッドフルーツ、ヤムイモ、葛根、ココナツ、サトウキビなど数々の食物と、カやラウハラのマットなどさまざまな工芸品が納められた。  
   下のパネルでは、マカヒキの説明欄の下に、小さく、「1778年、マカヒキ祭にボクシングやレスリングが行われた」との記載があり、この博物館は、1950年の写真がそのときの様子を示していると判断しているようだ。  

            ロノマクア↓        ハワイ最大の祭「マカヒキ」 褌一丁の裸の群像 撮影:1950年

ハワイ最大の祭「マカヒキ」 褌一丁の裸の群像 撮影:1950年

           ロノマクア↑                   拡大写真(1600X1200)248KB

 

ロノマクア  Lonomakua

 
  ▲▼ マカヒキ祭の開催中は、ロノ神を象徴した「ロノマクア」が飾られる。1950年に撮影された写真上は、十字の棒が立てられ、横木から様々なものが垂らされている。生け贄の鳥などが吊されているようにも見える。下の図はその一形態で、白布が飾られており、長い棒が「T」の字に組み合わされ、棒の交点には、ロノ神の木像が飾られ、横木からは鳥の羽のレイや、シダが垂らされていたという。  
 キャプテン・クックがマカヒキ祭の最中にハワイ島に来航し、ロノ神と間違われて崇拝されたというのは有名な話である。クックが乗っていたレゾリューション号の帆は、下図のロノマクアそっくりなので、それを見た住民がロノ神がやってきたと錯覚し、神に祭り上げられたのだと思われる。
   しかし、1979年、3度目の航海の途中にハワイ島ケアラケクア湾に錨を降ろしたクックは、ハワイの先住民との争いで殺害された。その不慮の死を遂げた場所近くに白亜のキャプテンクック記念碑が立てられている。  
 

  参照: 感動のハワイ島/プナルウ

 
ロノ神を象徴する白布「ロノマクア」

ロノ神を象徴する白布「ロノマクア」

 

フラ・カヒコ  Hula Kahiko

 
▼ マロ(六尺褌)一丁の男性が、円形の鳥の羽根飾りをつけた瓢箪でマラカスのように音が出るウリウリを持って踊っている。 マカヒキ祭の様子を描いたものだろうか。男たちは日本の脚絆(きゃはん)に似たものをつけている。
▼ 西洋文化が流入し て裸褌文化が野蛮だとされるまでは、男性はマロ(褌)、女性はモレ(腰蓑)一丁のトップレスで踊っていた。これを古典フラ(フラ・カヒコ)と呼んでいるが、現在、リバイバルの機運が高まっている。ただし、女性のトップレスは、難しい。(笑)
ウリウリ(羽根のついたマラカス)を持って踊るマロ(褌)一丁の男たち
ウリウリ(羽根のついたマラカス)を持って踊るマロ(褌)一丁の男たち

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カルア・ピッグ  Kalua Pig

 
  ▼ ハワイには、イノシシが今もあちこちに棲んでいる。feral pigwild pig (野ブタ)と呼んでいる。ハワイ語ではプアア pua'a という。 地面に穴を掘り、イム Imu というかまどを作って土の中でプアアを蒸し焼きするのがカルア・ピッグというハワイの伝統的な調理法である。  
 イム Imu を使って作るカルア・ピッグは、男性の役割だった。写真下は、1890年にその様子を撮影したもので、男性は、まさしくマロ(褌)一丁である。この二人は、前垂式六尺褌を締めている。
 カルア・ピッグは、タヒチなどの南方ポリネシアからハワイに住み着いた先住ハワイアンたちの料理だった。Kalua はハワイ語で焼くという意味で、まさに豚の蒸し焼きである。かつては祝いや儀式のときなどのハレの食事であった。
 地面に4ft(1.2m)X3ft(90cm)深さ6ft(1.8m)の穴を掘り、その穴の底にキアベ Kiawe の木で真っ赤に焼いた石を敷き、その上にバナナの葉やティーという葉っぱで重ね包んだ丸ごと一頭の豚を置き、土を被せて8時間ほど蒸し続ける。期が熟すると、代表者が神官を伴い、神々に感謝の言葉を捧げながら豚を取り出す。その後のルアウ(宴会)では、この豚の蒸し焼きがメインディシュとして振る舞われる。ネイティヴ・ハワイアンの最大のご馳走である。
イムを使ってカルア・ピッグ(豚の蒸し焼き)を作る 撮影:1890年
イムを使ってカルア・ピッグ(豚の蒸し焼き)を作る 撮影:1890年

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■■■ 079 ポリネシアの裸褌文化 ■■■■

ポリネシア文化センターの全域図 2013.06.21

ポリネシア文化センターの全域図

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▲▼ 2013年6月21日(金)ハワイはオアフ島北部にあるポリネシア文化センターを見学した。カヌーツアーの到着地点はタヒチ村。上陸して展示パネルのある場所でトイレ休憩 となった。演壇の壁には、オセアニアやオーストラリア、南アメリカに至る巨大なパネルが掲げられ、ポリネシアの範囲を示すポリネシアン・トライアングルが示されており、それぞれの地域の原住民たちの姿が描かれていた。
太平洋に暮らす人々を描いた展示パネル 15:28

太平洋に暮らす人々を描いた展示パネル 15:28

オセアニア(ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア)に住む人々

オセアニア(ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア)に住む人々

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▲▼ 暑い地域に住むネイティブ(原住民)たちは、裸で暮らすことが多く、男性の下着はマロ(褌)が多い。この絵は、儀礼的な褌姿が描かれているが、この後ビショップ・ミュージアムでたっぷりと検証するが、ハワイの男たちは、日本人の六尺褌そっくりのマロ一丁で生活しており、戦争に際しても兵士たちはそのままの姿で戦った。まさに、日本と同じ裸褌文化が根付いていた。
褌(マロ)を愛用する民族

パプア・ニューギニア

ハワイ

マルケサス

南アメリカ

褌(マロ)を愛用する民族

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▼ ポリネシアン・トライアングルの中央に位置するタヒチの楽園をこよなく愛したポール・ゴーギャンは、レオ (腰巻)をまとっただけの女性を数多く描いている。1899年の「三人のタヒチ人」は裸の男性の左右に立つ女性を描いた傑作であるが、この絵の中央の男性は、紫色の褌をしている。

 internetで検索すると、タヒチの観光スポットでも褌一丁で漁をする様子を見せるところがあるので、タヒチも裸褌文化だったことが分かる。

三人のタヒチ人(1899年) ポール・ゴーギャン画

三人のタヒチ人(1899年) ポール・ゴーギャン画

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ラパ・ヌイ  Lapa Nui
 

▼ チリの沿岸から西方約3,700km沖合の太平洋に浮かぶチリ領ラパ・ヌイ(イースター島)は、ユネスコの世界文化遺産に登録されておりここには約900体のモアイ像が残されているパ・ヌイは先住民の言葉で大きい島という意味。

 7世紀から千年にわたって作られ続けたモアイ像は、部族の長の姿を表したものといわれているが、その殆どは、16世紀から17世紀に起きた部族抗争で破壊されてしまった。
褌(Tバック)をしたセンター内のモアイ像

褌(Tバック)をしたセンター内のモアイ像

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▼ 残された数少ないモアイ像をみると、その後ろ姿に紐状の褌が表現されており、 ラパ・ヌイでもネイティブ(原住民)たちは、褌一丁で生活していたことが分かる。

褌をしたモアイ像 / ラパ・ヌイ(イースター島)

資料画像
 

■■■ 078 ビルマの褌 ■■■■

 
▼ この写真は、ミャンマー最大の都市ヤンゴンに住むMin Min Aung (ミン・ミン・オウン)さんのフェースブックから拝借したもの。この男性は、日本の六尺褌そっくりの腰布を着用している。彼の説明によると、かつて、古き良き時代のビルマ人男性は、このような褌を着用し、下半身に入れ墨をするのが流行っていて、人々はそれを見て勇敢だと感じていた。  
 現在はロンジー( longyi 腰巻)を纏うようになっており、ミャンマーでこのような褌を締める人は誰もいなくなってしまった。 現代人のオウンさんは、この褌をどう呼ぶのかも知らない。  
 昔のビルマでは、江戸時代の日本人のように褌を締めていたが、それが廃れてしまったのを聞いてとても残念に思う。これから先、ロンジーも廃れてゆくのだろうか。(ロンジーの下は、何もつけないのが普通だという。)
                                                          追記:2012.09.12
 

古き良き昔にビルマ人男性の誰もが着用した褌

古き良き昔にビルマ人男性の誰もが着用した褌

 
 
  ▲ This old man of Myanmar wears a sash on his loin. It looks like Japanese fundoshi. There are no   men wearing this fundoshi-like cloth now in Myanmar any more. The name is unknown. Long time   ago, all men of Myanmer must do like this. Ancient Burmese thinks these tattoo men are only brave  men.They wear longyi nowadays.
My friend of Myanmar Mr. Min Ming Aung taught me.
 
 
■■■ 077 磐田市の赤褌犬「しっぺい」 ■■■■
 
  2012年8月17日(金)晴 ▼ 見付天神裸祭で知られる磐田市では、市政施行7年目に当たる平成23年(2011)、新たな磐田市のスタートを記念して8〜9月に磐田市を代表するイメージキャラクターのデザインを募集したところ、全国から1,210点もの作品が集まり、10月に選考委員会を開いて10点の候補作品に絞り、12月に市民投票を行った。その結果を参考に、本年1月20日に選考委員会を開催し、厳正な選考の結果、最優秀賞1点、優秀賞5点が決定した。  
 
静岡県 磐田市いわたし のイメージキャラクターに決まった「しっぺい」
静岡県磐田市イメージキャラクターに決まった「しっぺい」
 
   
▲▼ 最優秀賞は大阪府の田中みなみさんの作品「しっぺい」で、見付天神に伝わる民話「悉平(しっぺい)太郎」をモチーフにしたもの。ご覧のとおり、赤褌(あかふん)を締めたふくよかな白犬である。横褌(よこみつ)が紐状なので、越中褌だと思われるが、見付天神裸祭に合わせて赤い六尺褌の方が格好良いと思われる。しかし、決まってしまった以上、訂正はできないだろう。後ろ姿がどうなっているか、気になるところである。9月の見付天神裸祭のときに、機会があれば情報館に行って確認してみたい。 「しっぺい」壁紙ダウンロード 悉平太郎伝説
 
 昨日見付天神裸祭保存会の福代事務局長からこの吉報を知ったが、地元氏子たちは、親しみ深く「しっぺい君」と呼んでいる。しかし、磐田市当局は、「しっぺい」でとおすつもりで、磐田市高見丘の「ららぽーと磐田」一階磐田市情報館には、縫いぐるみも登場し、「しっぺい」をPRしている。 私は、「しっぺい」だけではよく分からないので、「赤褌犬しっぺい(あかふんけん・しっぺい/あかふんいぬ・しっぺい)」と呼ぶことを提案する。こう呼ぶだけで、グッと注目度が集まることだろう。
 ともあれ、これで名実ともに見付天神裸祭が磐田市を代表するイベントとなったわけで、「赤褌犬しっぺい」が全国に知られるようになることを祈念している。....「ふんどし談義」用原稿
 
磐田市いわたし 情報館に展示された「しっぺい」
磐田市情報館に展示された「しっぺい」
 
 

★☆★彡

 
 

■■■ 076 福井県高浜町の「赤ふん坊や」 ■■■■

 
   
 赤褌キャラクターといえば、平成20年(2009)に20歳の誕生日を迎えた福井県高浜町の「赤ふん坊や」がある。福井県高浜町を全国にPRするために生まれたキャラクターで、赤いふんどし姿で元気にPRしている。昭和63年(1988)に誕生というからかなりの老舗である。こちらは、同じ赤褌でも前袋式六尺褌で、跳んだり跳ねたり泳いだりしても絶対に乱れることはない。いがぐり頭がとても可愛い。戦前戦後は、夏になると水褌(すいこん)一丁で川や海で泳ぐ子供たちが何処にでも見られた。赤ふん坊やの呼称が良い。だから「赤褌犬しっぺい」を提案した次第。....「ふんどし談義」用原稿
 
 
 
 
 
高浜町のイメージキャラクター赤ふん坊や
かつての佐川急便のシンボルマーク赤褌飛脚
 
 
■■■ 075 飛脚のふんどし ■■■
 
  2012年8月17日(金)晴 現代の郵便や宅急便は、江戸時代には、飛脚と呼ばれる人夫が街道をリレーしながら運搬する人力輸送であった。江戸末期から明治初期の写真には、その姿が捉えられている。当時の男性の労働着は、六尺褌で、飛脚も例外ではないことが分かる。走り方に注目願いたい。足と腕が交互でなく、前なら前、後ろなら後ろに一致している。「ナンバ走り」と呼ばれる日本独特の走法である。  
 
江戸時代に活躍した褌一丁の飛脚
江戸時代に活躍した褌一丁の飛脚
 
 
19世紀の刺青写真(飛脚)
 JAPANESE TATTOO PHOTOGRAPHS in 19th Century
 
   
 かつて、佐川急便のトラックには、赤褌(あかふん)の飛脚がシンボルマークとして描かれていた。しかし、2007年3月21日からはセールスドライバーをイメージした新飛脚マークに置き換えられ、赤褌飛脚が過去のものになりつつある。ギャラクシーカラーのトラックでは順次旧飛脚マークの上に新飛脚マークが貼られており、現在ではごく稀に見られる程度である。ただし飛脚マーク自体は会社の社章でもあるので、用途を限定して使用されているという。

 佐川急便の赤褌飛脚は、越中褌で、激しい運動を伴う業務では、直ぐに乱れてしまい、江戸時代の実際は、写真上のように六尺褌である。そのため、関連会社のトラックには、子供が赤い腹掛けと六尺褌をまとったマークが描かれている。こちらの方が実際に見合ったもので、望ましい。
 
 
かつての佐川急便のシンボルマーク

赤褌飛脚あかふんひきゃく

かつての佐川急便のシンボルマーク赤褌飛脚
 
   「飛脚のふんどし」は、佐川急便のトラックにまつわる都市伝説で、飛脚の赤いふんどしに触れると幸せになれるといわれ、触ろうとする人が増えた。1991年の年末ころから主に小学生の間で知られるようになり、1993年には都市伝説として女子高生を中心に爆発的な流行を見せた。しかし、マーク自体が存在しなくなるにつれ、過去の伝説となってしまった。  
 
■■■    
074 台湾の孤島「

蘭嶼らんしょ

」の裸祭 ■■■
▼ 台湾の台東県蘭嶼郷(たいとうけん・らんしょきょう)に属する蘭嶼(らんしょ タオ語: Ponso no Tao)は、台湾本島南端から東方約40kmに浮かぶ瓢箪島(ひょうたんじま)で、面積は50km2ほど。台湾原住民のひとつでフィリピン・バタン諸島より移り住んだといわれるタオ族4,000人程が暮らしている。主要な産業は漁業とタオ族の伝統文化や奇岩などの自然を生かした観光業で、民宿が各部落にある。

水褌の漁師の写真を掲載している蘭嶼郷公所(役所)のトップページ

水褌の漁師の写真を掲載している蘭嶼郷公所(役所)のトップページ

資料:蘭嶼郷公所オフィシャルサイト
▲ この島に住む漁民たちは、豊かな水産資源を育む黒潮の恩恵を受けて生計をたてており、日本の江戸人たちのように、水褌(すいこん 前袋式六尺褌)一丁で漁撈に従事してきた。蘭嶼郷(らんしょきょう)公所(役所)のトップページには、褌一丁で素潜りをして 銛で魚を捕獲している島人の姿を掲載している。

日本の統治時代に撮影された写真

日本の統治時代に撮影された写真

資料:フリー百科事典ウィキペディア

▲ この海洋民族が暮らす孤島は、かつては紅頭嶼(こうとうしょ)と呼ばれており、写真上は、日本統治時代の絵葉書である。

丁字褲(六尺褌)の島人たちによる蘭嶼大船の進水式 2011.06.12 Sun.

丁字褲(六尺褌)の島人たちによる蘭嶼大船の進水式 2011.06.12 Sun.

拡大写真(1600x1100)468KB

資料:フォトストリーム

▲▼ 2011年に中華民国(台湾)が建国100年となるのを記念し、島人たちが独力で半年かけて造り上げた漕ぎ手18人と舵取り1人の蘭嶼(らんしょ)大船が2011年6月に完成した。

丁字褲の子供たちによる民俗舞踊

丁字褲の子供たちによる民俗舞踊

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資料:フォトストリーム

▲▼ 大人も子供も丁字褲(ディン・ジ・ク) (丁バック)、つまり、前袋式六尺褌、いわゆる水褌一丁で進水式を祝っている。島の漁師たちは、先祖代々、褌一本で海に出て漁をしてきた。かつて日本の漁村で見られた普通の風景と変わらない裸褌文化が息づいているのに感動する。

丁字褲(ディン・ジ・ク)の前姿

丁字褲(ディン・ジ・ク)の前姿

資料:フォトストリーム

▲▼ アップで見ると、島人たちの丁字褲(ディン・ジ・ク)は、日本の六尺褌のような薄い木綿布ではなく、厚手の布でできたベルトに近く、前袋の位置決めができるように、横褌(よこみつ)に当たる部分に印がつけてあるので、その位置に合わせて折り返している。

丁字褲(ディン・ジ・ク)の後ろ姿

丁字褲(ディン・ジ・ク)の後ろ姿

資料:フォトストリーム

▲▼ ベルトの片方の端にも印がつけてあり、どちらが前褌(まえみつ)になるかが分かるようになっている。股を潜らせた両端の布は、日本のように横褌(よこみつ)に巻きこむのではなく、相撲褌のように、後褌(うしろみつ)で褌を掛け(ヒッチを掛け)て 、そのまま垂らしている。自分の体格にあった長さに調節しているらしく、全員、同じスタイルとなっている。創意工夫のあとが見られ、興味深い。

日本の神輿のような裸褌祭

日本の神輿のような裸褌祭

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資料:フォトストリーム

▲▼ このあと蘭嶼大船は、無事に黒潮を乗り切って40km西の台湾本島に到達し、沿岸をめぐり、親善を深めながら最後は台北にたどり着いて文化交流を果たしたという。台湾の海洋民族の伝統文化の素晴らしさと技術の高さに改めて感心する。

進水した蘭嶼大船

進水した蘭嶼大船

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資料:フォトストリーム
 この情報は私のfacebookでfriendとなったMark Linさん(国立台湾芸術大学卒 台中市在住 1975年3月1日生まれ 37歳)から寄せられたもので、今年、この祭の見物に行くというので、写真を撮って送ってもらうことになった。更に高解像度の写真で日本の漁村とよく似た台湾の裸褌文化を紹介したいと思っている。(情報提供:2012.06.21 2000万アクセス達成の日)
 
 
 
■■■ 073     地獄絵図に描かれた褌 ■■■

光明寺こうみょうじ

▼ 鎌倉では珍しい浄土宗の光明寺は正式には天照山蓮華院光明寺といい、第四代執権・北条経時(ほうじょう・つねとき)が仁治元年(1240)法然(ほうねん)の孫弟子・然阿良忠(ねんあ・りょうちゅう)上人(1199〜1287)を開山として創建した蓮花寺を、第五代執権・北条時頼(ほうじょう・ときより)が寛元1年(1242)材木座に移して光明寺と改名したもので、浄土宗関東総本山である。

蓮で有名な光明寺の本堂と記主園(神奈川県鎌倉市)

蓮で有名な光明寺の本堂と記主園(神奈川県鎌倉市)

拡大写真(2000x1500)592KB

▼ 本堂には、閻魔大王の前で最後の審判を受け、地獄に送られた死者の末路が描かれた地獄絵図が掲げられている。嘘つきは舌を抜かれたり、針の山を登らされたり、火の車など子供のときに親から教わった恐ろしい地獄の沙汰がありありと描かれている。
 地獄に描かれた青鬼・赤鬼・黄鬼・緑鬼は着物を着た鬼も見えるが、殆どが白と黄色の前袋式六尺褌を締めた裸形である。肌に直接褌を締めている鬼のほか、虎皮の褌の上に褌を締めている鬼もいる。鬼の褌が一様に前袋式であるのは、前垂式だと作業をするのに緩んだりするためであろう。
 地獄に落ちた男たちは全員白褌一丁の裸形である。三途川(さんずのかわ)を渡ったところで脱衣婆(だつえばば)が経帷子(きょうかたびら)と呼ばれる白装束をはぎ取ってしまうため、男性は褌、女性は腰巻のみの裸形にさせられてしまうからである。白褌なのは死装束が白に統一されているため、色柄褌を締めていた者も湯灌のあと、新しい白褌に着せ替えられるためである。男たちは、六尺褌のほか、越中褌と思われるものもあり、中には猿股のようなものも見られる。江戸時代の男性の下着は褌だったので、この地獄絵は、江戸時代に描かれたものでは無いのかも知れない。
 閻魔大王の前に数珠つなぎされた男たちが連行されて来ているが、前垂式の褌をしている。全員盲目で剃髪しているので座頭たちであろう。最初は僧侶かと思われたが、寺に納める絵図に地獄に落ちた坊主を描くことはないと思われる。彼らの下着は越中褌が普通なので、前垂式六尺褌ではなく、越中褌と考えられる。数珠つなぎの男たちを連行する黄鬼も越中褌らしく見える。座頭担当の鬼だからだろうか。

光明寺の地獄絵図(神奈川県鎌倉市)

地獄絵図

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▲ 閻魔大王は死後五週間目(五・七日忌)に天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道の何れに送るかの裁判を行う。嘘をついても浄玻璃(じょうはり)の鏡に罪が映し出される。死後四十九日目に判決が確定し、直ちに執行される。閻魔はインドの死の神ヤーマであり、中国で閻魔大王となって日本に伝わった。閻魔の本地は地蔵菩薩である。

延命寺えんめいじ

▼ 千葉県安房郡三芳村延命寺には、16幅の絵巻が保存されている。この絵巻は、天明4年(1784)江戸の絵師によって描かれたものだが、絵師の名は不明である。この絵巻に描かれた褌姿 (部分)を見てみよう。
 三途川では、渡河を躊躇している死者を投げ入れている赤鬼が描かれている。虎の毛皮の上に緑色の前袋式六尺褌を締めた裸形である。後ろに控えているのは、前垂式六尺褌一本の盲目の男性で、杖と数珠を持っており、座頭と思われる。最初は、死に装束の白衣を着ているはずなので、初めから裸形というのは少し解せない。後ろの女性二名も着物をはぎ取られたのか裸でいる。よく見ると男と同じ褌をしている。江戸時代の女性も褌をすることがあるのだろうか。

三途川「壱」

三途川「壱」

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▼ こちらも赤鬼だが、緑色の前袋式六尺褌を直接肌に締めている。投げ入れられている男は、既に白衣ははぎ取られたらしく、前垂式六尺褌一丁の裸形である。                                                     

三途川「弐」

三途川「弐」

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▼ 三途川を渡ると、脱衣婆(だついばばあ)が待ち構えていて、死者の白衣をはぎ取ってゆく。死者は三途川を渡る前に赤鬼に裸にされているので、同じ絵巻で矛盾があるが、こちらが本来の姿で、男性は褌一丁、女性は腰巻一枚の裸形となる。地獄絵図によっては、着衣が全てはぎ取られ、全裸となるものもあるが、光明寺も延命寺も慈悲があるのか、褌腰巻までは、はぎ取らない。下の男性は前垂式六尺褌だが、一般男性は、この前垂式が普通だと思う。                                                     

脱衣婆

脱衣婆

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▼ 閻魔大王の前に連行されている男たち。全員盲目で、先頭の男は杖をついているので、座頭の一団である。光明寺の地獄絵図と同じように、数珠つなぎにされている。光明寺とちがって、こちらは前垂式六尺褌である。座頭は越中褌が普通だが、江戸時代における死出の旅姿は、越中褌の老人でも経帷子の下に白い前垂式六尺褌を締め たのであろう。鎖を持つ緑鬼は、直接肌に白の前袋式六尺褌を締めているが、後ろの結び目が不自然である。葛飾北斎のような達人であれば、このような描き方はしないだろう。

閻魔大王の下へ

閻魔大王の下へ

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▼ 頸木(くびき)刑の男性は、前垂式六尺褌一丁だが、三角巾の天冠(てんかん)をつけている。これは死装束(しにしょうぞく)の定番で、幽霊の絵にも描かれているが、光明寺の地獄絵ではまったく見られず、延命寺の方もやっと見つけられた。天冠は地域によっては頭巾(ずきん)や額烏帽子(ひたいえぼし)などとも呼ばれるが、一説には、閻魔大王に会うのに、失礼の無いようにとの意味があるという。そうであれば、地獄絵に無くてはならないものなのだが・・・。

頸木刑の男性

頸木刑の男性

 以上見てきたように、江戸時代の絵師が描いた延命寺の地獄絵図を見る限り鬼たちはカラフルな褌を楽しんでいるが死出の旅に出た男たちは、白い前垂式六尺褌を締めるのが一般的であることが分かる。また、丁髷(ちょんまげ)の元結(もとゆい)は切られて、頭髪は後ろに垂れている。  平成24年(2012)4月6日
 
 
 
■■■ 072     褌の醍醐味を紹介する本格的な六尺道場 ■■■
▼ Google で「六尺褌」を検索すると、トップにフリー百科事典のWikipediaが表示されるが、「六尺褌の画像検索結果」の次、つまり二番目に「六尺道場」が表示される。六尺褌の醍醐味を紹介する本格的なサイトで、主催者は、私の知人である。

「六尺褌」検索で18万件中2番目に表示された六尺褌道場

「六尺褌」検索で18万件中2番目に表示された六尺褌道場

▼ 「六尺道場」をクリックすると、「六尺道場よじり締め」のページが表示される。トップページには思えないが、このページがトップページである。よじり締めを強調する内容になっているが、この締め方は、彼が工夫した締め方で、遊び心はあるものの実用的ではないと本人も認めているように私はこの締め方は気に入らない。江戸時代には、極端に褌をよじる(ねじる)ような締め方はしていないし、柔らかな木綿布がロープのように固くなり、もはや肌着とは言えない。裸祭に推奨されているが、裸祭は、社寺の神事や祭礼であり、ふざけた格好で参加するのはタブーであり、伝統の締め方に従うのがマナーであることを忘れてはならない。
 ちなみに「六尺道場よじり締め」のページに掲載されている黄色の前垂式六尺褌は、普通の締め方であり、よじり締めではない。下の方にスクロールすると、よじり締めの写真が出てくるが、ここでは紹介しない。

「六尺道場」をクリックすると表示される画面

「六尺道場」をクリックすると表示される画面

▼ 「六尺褌」のGoogle検索第3位は「六尺褌の締め方1」で、クリックすると「六尺道場」のページだった。2・3位が「六尺道場」のサイトとは、凄い。このサイトが六尺褌の定番になっているのは素晴らしいことである。彼の説明によると、種々の褌を購入し、ご自分がモデルになってタイマー撮影した本格的なもので、微に入り細にわたっている。六尺道場に来れば、越中褌も含めて希望の褌の締め方を写真と解説で簡単に理解できるようになっている。これだけの種類と解説と豊富な知識は、感動的でさえある。

本格的な六尺褌褌の締め方

本格的な六尺褌褌の締め方

更に続くが以下略

▼ なお、Google検索で表示されたサイトは、容量が満杯となったらしく、現在は新しい場所に移っている。彼が私に紹介してくれたサイトもそのURLであり、まだアクセスか少ないためか、Google検索では表示されない。

                 ↓ 新しい「六尺道場」のサイト 
http://www.geocities.jp/thai_rokushaku/ 
 

新「六尺道場」のトップページ

新「六尺道場」のトップページ

 
▲ 新しい「六尺道場」のサイトに行くと「憂国の思い」と「タイ観光」が付加されている。新しいサイトを見て、ゲイと右翼のサイトだと勘違いされたことがあるらしいが、この道場の主催者と既に8年ほどお付き合いさせて頂いている私からもそうでないことを保証する。裸褌文化を愛する一個人として、このサイトの更なる発展を祈念したい。
     平成24年(2012)4月7日改訂
 
 
■■■ 071     写真家の撮った褌 ■■■

土門拳どもんけん

 土門拳(1909-1990)は、昭和時代に活躍した日本の写真家で、社会的リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の大家である。彼は、ズームアップして背景をぼかすというようなことは嫌いで、パンフォーカスのシャープな報道写真風の作品が多く、私の尊敬する写真家である。
▼ ここに紹介するのは、土門拳が昭和11年(1936)の夏に撮影した写真で、伊豆半島の川の早瀬で鮎を突いている二人の水褌(すいこん)姿の子供たちの写真である。白黒写真なので、色は分からないが、前袋式に締めた赤褌(あかふん)であることは容易に推測できる。当時は海水パンツという西洋の文化はまだ日本全国には行き渡らず、田舎では、水泳は水褌に決まっていた。

土門拳 / 伊豆・鮎つく子ら(1936)

土門拳 / 伊豆・鮎つく子ら(1936)

撮影: 土門拳

▲ これだけ多くの布を使った赤褌を締められるのは金持ちの子で、普通の庶民や貧乏人は黒猫褌(くろねこふんどし)やフリチンの方が多かったのではないだろうか。Tバックの大胆なポーズと構図が素晴らしく、名作に数えられているが、 当時は普通に見られる光景で、写真に撮るようなものではなかった。
 若干気になるのは、右下の子のお尻がちょん切れていることで、私なら二人とも全身がきっちりと入るように写すだろう。そんなに難しいことではないのになぜちょん切れたのか。今見ると、白黒写真も粒子が粗く、ぼやけて情報量も少ない。今のデジタル写真のことを考えると、白飛び黒つぶれの多いアナログ写真のレベルの低さを感じるが、この作品は、雑音が入ったレコードを聴くように、古き良き時代のノスタルジア溢れる名作ではある。

田沼武能たぬまたけお

▼ 田沼武能(1929- )は、現在も活躍中の子供の写真を撮影する日本の写真家である。この写真は、田沼武能写真集「戦後の子供たち」(新潮社)に収録されているもので、昭和29年(1954)千葉・谷津(やつ)海岸で撮影した「越中ふんどしで泳ぐ少年」というタイトルがついている。まず、これの少年の褌は、越中褌ではなく、黒猫褌である。前袋がとても狭いので、これは祖母か母に作ってもらった手作り褌ではないかと思う。田沼氏は、褌に色々な種類があるのは、ご存じらしく、「ふんどしで泳ぐ少年」としなかったのだが、確認を取らなかったらしく、間違ったネーミングになってしまった。

田沼武能 / 越中ふんどしで泳ぐ少年(部分 千葉・谷津海岸 1954)

田沼武能 / 越中ふんどしで泳ぐ少年(部分 千葉・谷津海岸 1954)

撮影: 田沼武能

▲ もう一つは、この少年は、菓子パンらしきものを食べており、ふんどしで泳ぐ少年ではない。ふんどしで泳いだか、これからふんどしで泳ごうとしている少年だろう。海水浴に来ているのだから、ひろくとらえれば「ふんどしで泳ぐ少年」としても間違いではないが、 この写真は、「ふんどしでパン(らしきもの)を食べる少年」を撮したものである。                                                     
 写真の子は栄養状態が悪く、痩せている。浮浪児のような雰囲気さえある。東京湾奥の谷津海岸は、谷津遊園があり、今や大都会の行楽地となっている。戦後間もなくのこととはいえ、黒猫褌の少年がいたのは、歴史的な証言で、現代では考えられない懐かしい光景である。 平成24年(2012)3月25日
 
ふんどし談議 2/2

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