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 感動写真集

2012年6月15日改訂

 

 

 

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♪和楽器メドレー

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          宮出や喧嘩神輿になりにけり  北舟

2006年6月23日作成

一之宮の裸神輿

一之宮の裸神輿(淺草寺/東京都台東区)

淺草神社神紋「三葉葵」   淺草神社神紋「三網」   淺草神社神紋「左三巴」

江戸っ子!三社祭

一之宮

 
三社祭の 宮頭みやがしら
 
   5月21日(日)午前6時から本社神輿の宮出が行われた。三社祭の宮頭は、建設会社「新門」代表取締役の杉林仁一さんで、幕末の江戸町火消(えどまちひけし)の親分・新門辰五郎(しんもんたつごろう)の7代目に当たる。  

 
新門辰五郎

写真提供:幕末写真館

新門辰五郎しんもんたつごろう
 新門辰五郎〈寛政12年(1800)? - 明治8年(1875)〉は、江戸時代後期の町火消、鳶職、香具師*1(やし)、侠客*2(きょうかく)、淺草寺門番。「新門」の姓は輪王寺新門を警護したことに由来する。
 武蔵国江戸下谷(東京都台東区)に生まれ、幼少の頃に実家の火事で父が焼死したことから町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍。
 仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824)に「を組」を継承。侠客の元締め的存在で、他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責任を取って入牢している。
 新門辰五郎の裔(まつえい)となる町田家が平成の今日に至るまで「新門」の名で淺草寺・淺草神社の御用を務めている。
*1香具師:露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする人。俗に的屋(てきや)ともいい、映画「男はつらいよ」の「フーテンの寅さん」の職業。
*2侠客:強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴(まちやっこ)に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。
 没後は辰五郎の数多くのエピソードが小説・講談・歌舞伎・テレビなどに登場する。暴れん坊将軍(松平健)に登場する辰五郎(北島三郎)も新門辰五郎をモデルにしている。
 同じ侠客の清水次郎長や会津の小鉄は博徒(ばくと)であったのに、辰五郎は終生博奕(ばくち)を打たなかった。侠客と呼ばれたが、世間の親分衆とは違って来客があると股引姿で正座して応対した。酒を飲むが決して酔わず、乱れることはなかったというから、未だに浅草っ子が尊敬し、誇りにしているのも頷ける。

三社祭の宮頭・杉林仁一さん

三社祭の宮頭・杉林仁一さん

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本社神輿の 宮出みやだし
 「これより宮出を執行いたします」という宮頭・杉林仁一さんの発声に続き、1万人ともいわれる担ぎ手の「シャシャシャン・シャシャシャン・シャシャシャン・シャン」の一本締めが終わるや否や、三基の神輿が一斉に担ぎ上げられ、大勢の担ぎ手衆が担ぎ棒に殺到し、興奮の坩堝(るつぼ)となった。あちらこちらで神輿の奪い合いから喧嘩になり、まさに江戸喧嘩神輿といわれるとおりになった。

宮出しされた一之宮

宮出しされた一之宮

撮影:K. I.

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 宮出や喧嘩神輿になりにけり 北舟 

みやだしや けんかみこしに なりにけり

観音堂前の一之宮
 三基の本社神輿は、西部・南部・東部の各町会に一基づつ割り振られ、一年ごとにずれていく。西浅三北が属する西部町会は、昨年は三之宮だったので、今年は一之宮の渡御となった。
 修羅場となった淺草神社の境内から抜けだし、観音堂の正面にたどり着くまでに、1時間以上かかる大渋滞。ようやく西浅三北町会の黒半纏が得意のフォーメーションをとって観音堂前に現れ、大勢の観客の前で一之宮の神輿練りを披露し、拍手喝采を浴びた。

一之宮の鳳凰と駒札

一之宮の鳳凰と駒札

撮影:K. I.

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一之宮の町内渡御
 大渋滞の淺草寺を抜け出した一之宮は、浅草二・芝崎東・芝崎西・芝崎中の各町会を経て、正午ころ、仲通り十字路にて芝崎中町会から西浅三北町会が受け継ぎ、一之宮の町内渡御が始まった。

一之宮を取り囲む群衆

一之宮を取り囲む群衆

神輿の掛け声
 台東区のケーブルテレビが44ヵ町全ての本社神輿渡御を収録し、後日放映したので、全町の練り方や掛け声を知ることができた。その結果、「ワッショイ」は皆無で、掛け声はバラバラであることが分かった。
 三社祭や神田祭などでは「セイヤ・セイヤ」といい、新聞などでそのような表現が目に付くが、殆ど聞かれない。多いのは「ソイヤ・ソイヤ」「オイサ・オイサ」「ヨイサ・ヨイサ」「ヤッ・ホイ」「ウリャ・サー」などだが、多いといっても10人に1人もいないので、それぞれ数%といったところ。
 「ソリャ・ソレ」「サー・ホイ」などバラバラで、中には「サー・サー」などもあり、卓球の愛ちゃんのよう。(^^; 昔は「ワッショイ・ワッショイ」が定番だったが、今は深川祭でしか聞くことができない。

西浅草三丁目を渡る一之宮

西浅草三丁目を渡る一之宮

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一之宮の裸神輿

 西浅三北町会は、連合渡御の三北神輿と同じように、本社神輿渡御でもこのフォーメーションが常態である。

 一般の観客は、カメラマンのように脚立の上から見ているわけではないので、前に立つ人の頭と揺れ動く神輿しか見えない。これでは見物していないのと同じようなもの。神輿の上に煽動する鯔背(いなせ)な江戸っ子が乗って初めて祭りの熱気や感動が伝わってくる。西浅三北町会は、身をもってそれを実践している。

一之宮の裸神輿

一之宮の裸神輿

撮影:K. I.

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警察の規制
 和田さんも 三社祭2004/祭褌 の結びで、「例年、西浅三北の神輿が目を引くが、警察は危ないから神輿から降りるよう何度も注意していた。殆どの神輿が警察の指導に従っているため、観客は神輿しか見えず、盛り上がりに欠ける感じがする。事故防止ということはよく分かるが、余りにも管理された印象があり、もう少し氏子たちの自主
性にゆだねても良いのではないかと感じた。」と書かれていたが、例年、機動隊車輌が出動してくるので、雑踏警備に徹し、過剰な規制にならないよう願っている。

一之宮の駒札が光る裸神輿

一之宮の駒札が光る裸神輿

撮影:K. I.

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白半纏神輿
 午後1時ころ西浅草三丁目交番前で本社神輿の渡御が終わり、一之宮はトラックで次の堤町会へ搬送された。
 午後2時半ころ十字路に集結した氏子たちは、目抜通りで三北神輿を練り上げ、午後4時半ころ若睦の神酒所前で白黒両半纏による渡御を終え、三本で〆(しめ)たあと、恒例の白半纏による渡御に入った。

気合いの入った若睦の華棒

気合いの入った若睦の華棒

有終の美
 先棒(さきぼう)の面々はこだわりの褌派。写真下中央は同好会の御大(おんたい)で、至福の境地に達している。
 白半纏神輿は、若睦の神酒所から追分前までを往復して有終の美を飾り、午後5時ころ、最後の最後の三本〆(さんぼんじめ)で今年の三社祭を終えた。

至福の華棒

至福の華棒

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