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平成21年(2009)9月26日(土)27日(日)、一泊二日の日程で静岡県磐田市(いわたし)で行われた見付天神裸祭(みつけてんじん・はだかまつり)の御大祭(ごたいさい)を密着取材した。 |
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9月26日(土)東京駅新幹線ホームで群馬の新尺俊勝さんと合流し、午後1時ころ磐田市に到着。旧東海道見付宿(みつけじゅく)の見付天神入口にある江戸時代の寛政12年(1800)創業の老舗割烹旅館「大孫(だいまご)」にチェックインしたあと、二人で御大祭の主要ポイントを下見して最終チェックした。 |
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資料:見付天神裸祭保存会 |
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▲ 見付天神裸祭は、8日間にわたって執り行われるが、浜垢離(はまごり)と御大祭(ごたいさい)以外は、神事が中心で、ひたすら清め祓うことに主眼が置かれており、汚れや穢れを嫌う日本の神道の特徴が良く現れている。 |
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資料:見付天神裸祭保存会 |
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▼ 裸祭りのガイドブックには、裸祭の「こころえ」が解説されているが、その中で、裸祭の参加条件が5つ挙げられている。その中の5項目目には、「身なりの正しい者」と規定されており、具体的には、@ 町印の手拭いの鉢巻
A 晒布の腹巻・褌 B 腰蓑 C 黒足袋 D 草鞋 が参加条件となっている。 |
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福代事務局長によると、保存会が最も力を入れているのが祭り衣装の統一で、私が指摘するまでもなく、国の重要無形民俗文化財に相応(ふさわ)しい、美しく格調高い伝統文化の保持を目指していた。 |
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資料:見付天神裸祭保存会 |
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▲ 西区の水陣のように比較的新しい祭組は、衣装統一がスムーズに行われているが、古くからある祭組は、以前かなり乱れた時機があり、それが尾を引いていて、衣装統一が進まないという。未だに衣装違反を続けている人は、Wa☆Daフォトギャラリーに公開された写真を見て、そのかっこ悪さを自覚し、国の重要文化財に指定された重みをもう一度噛みしめて頂きたいと思う。 |
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資料:見付天神裸祭保存会 |
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▲ 写真上は、今から90年ほど前の大正(1912〜1926)中期に見付町青年會が発行した「はだか祭に於ける青年會員の正装」と題する記念写真。この頃から既に衣装違反が見られたのか、正装をアピールする写真が作られている。現在の正装も90年前と全く変わるところがない。 |
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資料:見付天神裸祭保存会 |
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▼ 写真下は、今から100年ほど前の大正元年(1912)に発行された「静岡懸見付天神社大祭之圖」で、御大祭の様子が描かれ、一枚3銭で売り出された。「矢奈比賣神(やなひめのかみ)」の大きな幟(のぼり)が立ち、裸っぽたちによる道中練りの様子が描かれている。右上には、「真夜中丑刻(うしのこく)(午前1時〜3時頃)ニ御輿シ渡り之圖」として、暗闇の「おわたり」も描かれている。 |
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資料:見付天神裸祭保存会 |
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▲ 昭和34年(1959)までは、御大祭は宵の祭と夜中の祭の二部に分かれて翌朝まで催行されていたため、御輿渡御(おわたり)が丑刻となっているが、その後、夜中の1時過ぎには終了するように改められて今日に至っている。 |
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見付天神裸祭「御大祭」の主な会場
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見付宿場通り |
(旧東海道)と見付天神入口/静岡県磐田市) 2009.9.26 13:27 |
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マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。
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▼ 見付天神入口の近くに褌・腰蓑・足袋・草鞋など祭用品を販売する店があったので、新尺さんはこの店で必要品を調達した。主要ポイントの下見の後、見付天神裸祭保存会事務局長の福代陽一(ふくよ・よういち)さん宅に行き、新尺さんを紹介し、打ち合わせを行った。 |
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褌・腰蓑・足袋・草鞋など全てが揃う祭用品店
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新尺さんは、保存会副事務局長の松本直希(まつもと・なおき)さんが所属する西中区の二番觸(にばんぶれ)(二番町)に参加することになった。また、3日前の浜垢離(はまごり)に参加した3名のうち、相模原市の庄俊之(しょうとしゆき)さんが引き続き福代さんが所属する東中区の御瀧車(おんたきぐるま)(宿町しゅくまち)にお世話になった。 |
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見付天神社( |
矢奈比賣 |
天神社)表参道入口 |
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▲ 矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)の表参道入口には、保存会の看板が置かれており、「裸祭りの練りに参加するときは腰みのを必ず着用して下さい そのほか 白さらし・白ふんどし・黒足袋(たび)・草鞋(わらじ)・鉢巻き これが正調の姿です 誰でも参加できる裸祭りですが、正しい形、正しい行動で楽しく格調の高いお祭りにしましょう」と表示されており、衣装統一に力を入れている様子が窺われた。 |
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神社まで約300mある参道を進むと、間もなく右手に東区梯団の宮本(みやもと)(住吉町すみよしちょう)会所(旧住吉町公会堂)があり、その奥に、比佐麻里(ひさまり)祭と書かれた一対の巨大な幟(のぼり)が立てられていた。総社の古い記録に飛蘇鞠(ひそまり)祭とあり、祭事始めの無言の参列や神輿渡御の際に灯火を消したり人声を禁じるなど、厳粛な祭事に徹する祭りを表すものというが、その文字の詳しい意味は宮司にも分からないという。 |
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a |
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▼ その昔、見付宿には人身御供(ひとみごくう)の悲しい習わしがあり、それを救った霊犬・悉平太郎(しっぺいたろう)の伝説は今に語りつがれており、これが裸祭りの起源ともいわれている。 |
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旧暦8月10日近くになると、府中と呼ばれていた見付の里の娘のある家の棟に白羽の矢が立ち、8月10日の真夜中に見付天神へ人身御供として娘を差し出すしきたりになっていた。もしこれを拒めば、里中に大きな災いがかかるといわれていたので、家族の者は泣く泣くこれに従う泣き祭りを続けていた。 |
14世紀・延慶(えんぎょう)のある年、たまたまこの里へ立ち寄った旅の六部(ろくぶ)(巡礼僧)がこの話を聞いて、「神が人身御供を出せていうのはおかしい」と思い、その日に山に上がり、密かに窺っていると、丑三つ時(うしみつどき)(午前2時ころ)に怪物が現れ、生娘(きむすめ)を入れた長持ちの周りを小躍りしながら「信州信濃の悉平太郎(しっぺいたろう)に知られるな」とつぶやいたのを耳にした。 |
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赤鳥居↓ |
悉平太郎の像↓ |
見付天神裸祭の碑↓ |
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▲▼ 六部は、信州に行き、苦労の末、悉平太郎は長野県赤穂村(現・駒ヶ根市)にある光前寺(こうぜんじ)の飼い犬であることを突き止め、住職にお願いして、翌年、身代わりとなった悉平太郎は、怪物と悪戦苦闘の末、遂にこれを斃(たお)し、その正体は年老いた狒々(ひひ)であったことが分かった。しかし、悉平太郎も気息奄々(きそくえんえん)で、見付で息を引き取ったといわれている。 |
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「 |
霊犬悉平太郎 |
700年祭」を予告する垂れ幕 |
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▼ 光前寺の伝承では、この犬は早太郎(疾風太郎)と呼ばれ、寺へたどり着いてから死んだという。当時の見付天神社僧・一実坊弁存は、謝恩のため、6年かけて「大般若経」600巻を写経して光前寺に納め、その写経は、今も光前寺に現存している。 |
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▲ 「光前寺縁起」によれば、怪物を退治したのは延享(えんきょう)元年(1308)であり、「大般若経」の施入(せにゅう)は正和(しょうわ)5年(1316)とある。この伝説により、見付天神の赤鳥居のそばに悉平太郎の銅像が建ち、磐田市と駒ヶ根市は、友好都市の協約を結んでいる。見付天神では、来年の2010年9月11日の裸祭りにあわせて「霊犬悉平太郎700年祭」を実施する。 |
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粟餅 |
の製造直売所/見付宿場通り(旧東海道) |
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▲ ちなみに、人身御供の長持ちには、必ず粟餅(あわもち)を入れたといわれ、氏子たちは、御大祭(ごたいさい)には五穀豊穣を祈念して神前に粟餅を献上してきたという。現在では、磐田菓子粟餅組合が組織され、大祭当日はもとより、年間を通して磐田の名物となっている。柔らかくてとても美味い牡丹餅(ぼたもち)なので、お土産にお勧めする。1個100円で売られている。 |
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磐田市教育委員会による見付天神裸祭の説明
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▲ 悉平太郎の銅像のそばに「国指定重要無形民俗文化財 見付天神裸祭」と書かれた石碑があり、その近くに磐田市教育委員会の説明板がある。これらは、平成12年(2000)に裸祭りが静岡県指定から国指定の重要文化財に昇格したことを記念して設置されたもの。これを機に、平成14年(2002)には、従来の実行委員会を改編して見付天神裸祭保存会が発足し、裸祭りは保存会が主催する祭礼となった。 |
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▲ 赤鳥居をくぐり、更に奥に進むと、「六ッ石」と呼ばれる楼門の礎石があり、その右手に大山祇大神(おおやまずみのおおかみ)を祀る山神社(やまじんじゃ)がある。知らないと見過ごしてしまいそうな小さな祠の神社である。 |
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▼ その奥の石段を上ると見付天神の拝殿に至る。広大な鎮守の森に鎮座する寄せ棟造の立派な神殿である。 |
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▲▼ 見付天神の正式名称は矢奈比賣(やなひめ)神社であるが、矢奈比賣という女神がどのような神様なのか、宮司にも分からないという不思議な神社である。学問の神様として知られる菅原道真を合祀しているため、見付天神と呼ばれている。 |
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▲▼ 鈴木宮司が3日前の浜垢離で使用した鉢巻には「矢奈比賣天神社(やなひめてんじんしゃ)」と表示されており、写真下の幣殿に安置された神社の旗印にも同様の表示があり、妙案であると思った。そこで、この作品のタイトルも「矢奈比賣天神社」と表記し、矢奈比賣の神紋・八弁菊と菅原道真の神紋・剣梅鉢をあしらった。 |
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▼ 拝殿の西(左)側に小さな御池(みいけ)があり、神々が降臨する神籬(ひもろぎ)が立てられていた。御大祭の前日に当たる9月5日(金)午後8時から行われた「御池(みいけ)の清祓(きよはらい)」のために立てられたものである。 |
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御大祭の前日、御池の中央に神籬(ひもろぎ)を立て、天神地祇(てんじん・ちぎ)(よろずの神々)を招き奉(たてまつ)り、御大祭の無事執行と氏子崇敬者の安泰を祈願する「御池の清祓」は、伊勢神宮と見付天神社でのみ行われる神事であるという。 |
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2008年の写真:見付天神裸祭保存会 |
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▼ 関係者が茣蓙(ござ)に着座すると、鈴木宮司は伊勢神宮遙拝所(ようはいしょ)の扉を開ける。祭式は屋外だが、座礼で行われる。参列者は、宮司以下神職、先供、舞姫、総代、一般参列者。献饌(けんせん)後、宮司が祝詞(清祓詞)を奏上する。 |
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その後、浜垢離で採取した海水(塩湯しおゆ)と砂桶、大麻(おおぬさ)を持った神職たちが拝殿内や境内を清めたのち、先供が先導して、歩きながら参道、赤鳥居、大鳥居、宿場通りまで清め、祓い終わった大麻は先供が受けて中川に流す。祭場にもどると、関係者全員に小祓いが配られ、浜垢離と同様に身体を祓った後、庭燎(にわび)と呼ばれる篝火(かがりび)に投じる。 |
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篝火のそばで行われる |
御池 |
の |
清祓 |
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2008年の写真:見付天神裸祭保存会 |
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見付天神の下見を終え、旧東海道に引き返し、御旅所の総社(そうしゃ)を目指して西に歩いていくと、「東海道五十三次之内 遠州見付宿 本陣跡」があった。道路の拡幅工事が行われたせいか、中山道の馬篭宿などのような一見に値する古い家屋は残っておらず、一抹の寂しさを感じた。 |
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遠州見付宿の本陣があった場所/見付宿場通り(旧東海道)
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▼ 見付天神から御旅所の総社まで、片道約900mの道のりである。内訳は、天神〜天神入口:300m 天神入口〜総社入口(旧東海道):500m 総社入口〜総社:100m。総社の入口には「御祭禮」と書かれた巨大な住吉提灯(長提灯)が掲げられていた。 |
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また、見付の旧東海道に面して小路がいくつもあり、その小路に通ずる祭組は、11〜12ヶ町あり、祭礼が始まると、それぞれ「角の提灯」と称して、これと同じ形の小振りの提灯を立てている。 |
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総社 |
( |
淡海国玉 |
神社)入口/見付宿場通り(旧東海道) |
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▼ 総社参道の西(左)隣りに白壁が美しい日本最古の木造洋風建築の小学校校舎「旧見付学校」が保存されており、無料で一般公開されていた。時間があれば、是非、見学したいスポットである。 |
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日本最古の木造洋風建築の小学校校舎[「旧見付学校」
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▲▼ 参道の石鳥居の奥に楼門があり、高さが低いため、神輿の通過には注意を要する。地脇の輿番は、神輿の鳳凰を取り外してくぐり抜けるという。その奥の広い境内の中央に総社が鎮座しており、入口に御廣前(おひろまえ)の提灯が掲げられていた。「御廣前(廣前)」は、神前の敬語で、神の御前又は神社の前庭のこと。 |
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▼ 大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る総社の正式名は、総社淡海國玉神社(そうしゃ・おうみくにたまじんじゃ)といい、かつては遠江の国(とおとおみのくに)(現在の静岡県の大井川以西の領域)を統括する総社であり、見付天神よりも格式の高い神社だったが、現在は、見付天神の管理下に置かれている。 |
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畳敷きの拝殿は、三分の二ほど畳が片付けられて板間になっており、神輿を安置する準備がなされていた。 |
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▼ 午後4時から見付天神幣殿で5人の女子による「浦安の舞」が奉納された。毎年、4梯団から2人ずつ小学6年生の女子が舞姫に選ばれ、8人が練習を重ねてこの日に備えてきた。本職の巫女のように、素晴らしい舞を見せてくれた。 |
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舞姫の登場/見付天神幣殿 16:15 |
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▲▼ 浦安の舞は近代に作られた神楽(かぐら)(巫女神楽みこかぐら)の1つで、舞姫(巫女)が舞う。昭和8年(1933)の昭和天皇御製「天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」が歌詞となっている。一人舞、二人舞、四人舞などがあるが、正式は四人舞で、前半の扇舞と後半の鈴舞とがある。 |
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「うら」は心を指す古語であり、「うらやす」で心中の平穏を表す語であるとされる。また、日本書紀に「昔伊弉諾尊目此国曰 日本者浦安国」とあり、他の文献にも日本国の異号として「浦安国」とあることから、神祇*(じんぎ)の安寧慰撫(あんねいいぶ)と国の平穏無事が題名の「浦安」の語に込められている。 |
*神祇(じんぎ):天神と地祇(ちぎ)(地の神、国土の神)。天つ神と国つ神。かみがみ。 |
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「浦安の舞」奉納/見付天神拝殿 16:15 |
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さやけしや かみにささぐる うらやすのまい |
Refreshing air of autumn, offering a dance of peaceful seashore to gods. |
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小学6年生の舞姫たち |
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