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歴史上、最後のイスラム帝国となったオスマン帝国は、コンスタンチノープルを占領したアフメット II 世のひ孫に当たるスレイマン I 世のときに絶頂期を迎える。 |
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当時、キリスト教世界であったヨーロッパでは、神聖ローマ帝国となったハプスブルク家のカールV 世が権勢を揮(ふる)い、東西の勢力が拮抗(きっこう)する中で、イスタンブールはイスラム芸術の中心地として栄華を誇った。 |
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カーリエ博物館の巨大な中央ドーム |
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カーリエ博物館 Kariye Muzesi は、旧市街の北西にある博物館で、ビザンチン帝国の時代にコーラ修道院の付属聖堂として建設されたもの。コーラ修道院の起原は古く、設立は6世紀から7世紀といわれる。オスマン帝国の時代にはモスクに改装され、カーリエ・ジャーミー Kariye Camii と呼ばれた。 |
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有名なモザイク画「祝福を与えるキリスト」(右) |
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オスマン帝国時代に、聖堂内部の装飾が麻布と漆喰によって塗り込められ、ドームは漆喰を上塗りした木造のものに作り替えられた。しかし、トルコ共和国となったのち、1948年から1958年にかけて、アメリカのビザンチン研究所によって上塗りが除去され、ビザンチン美術末期の装飾が蘇り、イスタンブール歴史地区として世界遺産に登録された。現在、博物館として一般公開され、有名なモザイク画やフレスコ画を鑑賞することができる。 |
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ガイドの説明を聞く外国人観光客 |
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カーリエ博物館は、キリスト教世界ではアヤソフィアに次いで重要な遺跡といわれる。内部の壁は14世紀のフレスコ画やモザイク画で飾られており、美しく彩色されたキリストと聖母マリアの一生を題材にしたこれらの絵は、ビザンチン美術の真骨頂といわれる。 |
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ドームに描かれた幼いキリストと聖母マリアのモザイク画 |
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カーリエ博物館は、アヤソフィアと同じ運命を辿った教会であるが、アヤソフィアのようにモザイク画の上にアラビア文字が書かれておらず、ビザンチン美術の雰囲気がそのまま残されている。 |
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現存するモザイク画は50点以上もあり、アヤソフィア以上にかつての姿をイメージすることができ、東ローマ時代にタイム・スリップした気分になれるところが良い。 |
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キリストの誕生 |
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BGMに流れる神秘的な美しさを持つピアノ曲は、イタリアが生んだ作曲家兼歌手のジュリオ・カッチーニ Giulio Caccini (1550-1618)が作曲した「アヴェマリア」。これまで「アヴェマリア」と名付けられた曲は数多くあるが、その中でも最も心を打たれる曲のひとつである。 |
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支柱に描かれた聖母子のモザイク画 |
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トプカプ宮殿 Topkapı Sarayı は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿で、旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘の上に位置する。 |
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大きな建物を持たず、比較的小さな建物と部屋が連なり、また、数多くの庭園と離れ(キョシュク。キヨスクの語源)を持つ建造物群である。そのため、トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿であると説明されることもある。 |
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海峡から見たトプカプ宮殿 |
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資料 |
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1460年代頃、メフメト II 世が造営を開始し、1478年頃までに完成した。メフメト II 世がここに居を定めてからは、1453年にコンスタンティノープルを征服して以来の宮殿を「旧宮殿」と呼び、こちらを「新宮殿」(サライ・ジェディード 又は イェニ・サライ)と呼ぶようになった。また、イスタンブールに造営された多くの宮殿の中の正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれた。 |
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イタリアの画家によるスルタン・メフメト II 世の肖像画 |
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スルタン・メフメト II 世( Fatih Sultan Mehmed、1432〜1481)は、オスマン帝国の第7代君主(在位: 1444〜1446、1451〜1481)で、コンスタンチノープルを征服してオスマン帝国の版図を大幅に広げたスルタンで、征服者(ファーティフ Fatih )のあだ名で呼ばれた。 |
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海峡に面するトプカプ宮殿 |
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メフメト II 世はペルシャ語で詩作し、アラビア語を解する敬虔で教養あるイスラム教徒(ムスリム)であったが、同時に伝統的なイスラム文化の枠組に留まらない関心を持ち、イタリアの人文主義者や芸術家を集め、自身の有名な肖像画をベネチア出身の画家ジェンティーレ・ベッリーニに描かせるなど、古典的なイスラム国家のイメージに収まらないコスモポリタンな帝国の帝王として君臨した。 |
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日当たりと眺めの良い宮殿 |
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現在使われているトプカプ宮殿の名は、19世紀にこの宮殿から皇帝が去った後、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんで呼ばれるようになった。 |
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トプカプ宮殿のある丘は、古代ビザンチンのアクロポリスがあった場所。宮殿の外壁は、この丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約700,000m2あるという。 |
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トプカプ宮殿よりボスポラス海峡を臨む |
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外壁内の宮殿敷地に第二の城壁で囲まれた縦200m×横400mほどの長方形の空間がトプカプ宮殿の本体部分で、その内部は、行政と公式行事の行われる外廷(ビルン)と君主の私生活の場である内廷(エンデルン)、そして女性たちの住む後宮(こうきゅう)(ハレム)の3つの部分からなる。 |
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会議の間 |
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資料 |
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当初、ハレムは、旧宮殿に残されていたが、スレイマン I 世(在位1520〜1566)のときにトプカプ宮殿に移された。 |
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ハレムの内部に入ると、宦官*(かんがん)の部屋、召し使いの女性の部屋、夫人の部屋、スルタンの母の部屋、浴室などが細かく分かれており、それぞれイズニック・タイル**、大理石、シャンデリアなどで華麗に飾られている。 |
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ハレム harem とはイスラム社会における女性の居室のこと。トルコ語のハレムは、イスラム世界の外の国々にも広まった。アラビア語ではハリーム (حريم harīm) という。トルコでは、もともとダリュスサーデ(幸福の家)と呼ばれていたが、10世紀にイスラム教が入ってくると、4人まで妻が持てる一夫多妻制となり、王宮内にハレムが作られた。 |
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*宦官:東洋諸国で後宮に仕えた去勢男子。中国で有名。トルコでは、当初、宦官はコーカサスから連れてこられた白人ばかりであったが、後にアフリカの黒人宦官となった。 |
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イスラム社会では、去勢は認められていないので、黒人宦官は、アフリカで去勢されてからイスタンブールへ連れてこられた。ある者はペニスと睾丸(こうがん)を、ある者は睾丸だけ、ある者はペニスだけ切除された。 |
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最後の方法の場合、ごく稀に再生することが知られていたため、時々、医者が診察した。彼らはカーネション、水仙、ヒヤシンス、バラなど優美な女性の名前で呼ばれていたという。 |
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**イズニック・タイル:トルコのアジアサイド、イズニックで生産されたタイル。 参照:トルコタイル・陶器の歴史 |
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鮮やかなブルー(イズニック・ブルー)のイズニック・タイルが使われている内壁 |
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1926年にアタチュルクによってハレムが禁止されるまで、この習慣が続いた。ハレムでは常時500〜1000人の女性が生活し、スルタン以外、立ち入ることのできる男性は、警備のための黒人宦官のみであった。 |
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彼女たちの中でもスルタンに気に入られたお手付きの女性はイクバルとよばれ、個室や召し使いが与えられた。公式の妻になった女性は、カドゥン・エフェンディ(スルタンの妻)と呼ばれ、最初に嫡子を懐妊した女性がスルタンの第一夫人となり、ハレム内で絶大な権力を持つようになった。(江戸時代の大奥は、宦官抜きの和製ハレムである。) |
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ドームの間の見事な装飾 |
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