ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク
 

和田義男

 旅紀行ジャパン

2005年3月31日

♪木陰  BGMの小箱

    写真をクリックすると新しい窓が開き 拡大写真(1200x900)301KBが表示されます(以下同じ)。

2004年12月23日作成

岩海のシェルター

鬼押出し(群馬県吾妻郡嬬恋村)

上信越高原国立公園

浅間山鬼押出し

美晴台

観音堂 美晴台

美晴台みはるだい

   奥の院参道という名の遊歩道の奥に標高1,370mの美晴台という展望台がある。鬼押出しで最も浅間山に近い位置である。ここにもホツツジが咲いていた。  

美晴台

            拡大写真(1200X900)266KB

鬼押出し園作成

直線の稜線と溶岩のうねり

直線の稜線と溶岩のうねり

拡大写真(1200X900)183KB

山頂部の釜山

山頂部の釜山

拡大写真(1200X900)199KB

 

岩海がんかい

のシェルター
 
   遊歩道の随所に、コンクリートでできたかまぼこ型のシェルターがあり、日差しを避ける休憩所になっていた。  

岩海のシェルター

拡大写真(1200X900)301KB

樹齢80年の石割の松

樹齢80年の石割の松

溶岩の岩肌

溶岩の岩肌

ヒカリゴケ Schistostega pennata (Hedw.) Web.et Mohr
   溶岩の岩間(いわま)にヒカリゴケが群生していた。ヒカリゴケはヒカリゴケ科の蘚類(せんるい)でヨーロッパ、北アメリカ、シベリア、日本に分布している。日本では一般に冷涼な地に生じ北海道や本州の山岳地域で見かけられる。  
   洞穴や岩隙(がんげき)など暗い場所の土上に生育し、微かに黄緑色に光る。これは原糸体の細胞が平面的に配列し、それぞれの細胞がレンズ状をなし、弱い光を細胞の奥に偏在する葉緑体上に集光、反射するためである。  

岩間のヒカリゴケ

岩間のヒカリゴケ

拡大写真(1200X700)239KB

   原糸体自身が発光しているのではないので、反射光をとらえる一定の角度から眺めないと光らない。茎や葉は白緑色で光らない。長野県佐久市の「岩村田ヒカリゴケ産地」、埼玉県比企郡吉見(よしみ)町の「吉見百穴のヒカリゴケ発生地」、東京都千代田区の「江戸城跡のヒカリゴケ生育地」は国の天然記念物に指定されている。  

蛍光を発するヒカリゴケ

蛍光を発するヒカリゴケ

拡大写真(1200X560)179KB

蜀山人しょくさんじん

の碑
   天明3年の浅間山大爆発の被害はあまりにも大きかったため、時の大笹名主・黒岩長左衛門大栄は、再びあるかもしれない大爆発の被害を少しでも小さくなるように、このことを碑に残そうと思い、当時江戸の歌人・蜀山人に碑文の作成を依頼した。大栄は死亡したが、その子が父の志を継いで大笹宿の山根に文化13年(1816)に建立したのがこの碑であり、今は鬼押出し園で管理している。  

蜀山人の碑

 

碑 文

 
  信濃なる浅間のたけにたつ烟はふるき歌にも見えてをちこちの人の知る所なり、いにし天明三の年夏のはじめよりことになりはためきてほのふもえ上り烟は東の空にたなびきて灰砂をふらし泥水をふき出し 固き七月五日より八日にいたるまで夜昼にわかちもなくなりふもとの林ことごとく焼け、泥水は五里ばかり隔たりたる吾妻川にあふれゆきて凡二十里あまりの人家林田圃はいふに及ばず人馬の流死せしもの数をしらずしかるに有がたきおほんめぐみによりてやうくもとの如くにたちかえるといえどもたつ烟はさらにやまず いにし年この災をおそれて速にたちさりしものはからき命をたすかり おくれもして止れる者はことごとく死亡しせり、これより後にいたりて又も大きにやけ出んもはかりがたければ里人この碑をたてゝ後の戒となす事しかり

           富士のねの烟はたゝずなりぬれどあさまの山はとことはにもゆ

                         文化十三年 丙子 秋九月  蜀山人書
                                      黒岩大栄建
 
 
 
 

筆者現代語訳

 
  信濃の浅間の岳に立つ煙は、古い歌にも見えて、あちこちの人の知るところである。去る天明三年(1783)夏の初めより事が起こり、煙がはためき、炎が燃え上がり、煙は東の空にたなびいて灰砂を降らし、泥水を吹き出し、七月五日から八日に至るまで昼夜にわたり麓の林ことごとく焼け、泥水は五里(20km)ばかり隔てた吾妻川に溢れ行きて、およそ二十里(80km)あまりの人家・林・田圃はいうにおよばず、人馬の流死したものは数知らず。しかるに有り難いお恵みにより、ようやくもとのように立ち返るというものの、立つ煙は一向に止まず、先年この災いを恐れて早々に立ち去った者は際どく命を助かり、遅れて止まった者はことごとく死亡してしまった。今後又いつ大きく焼け出されることがあるか予測もつかないので、里人がこの碑を建て、後の戒めとすることとした。

           富士の嶺(ね)の煙はたゝなくなったが、浅間の山は永遠に燃える

                     文化十三年(1816) 丙子 秋九月  蜀山人書
                                      黒岩大栄建

 
 

 

太田南畝蜀山人おおたなんぽ・しょくさんじん

   1749年江戸に生まれ、父は幕府の役人で父の業を受け継いで支配勘定役となり、70余歳まで務めた。特に天明期を代表する狂歌作者として名高い。洒落本黄表紙などの作者であり、古歌をもじり時勢を風刺する作に妙を得ていた。  
 

 黒岩長左衛門大栄

 
   代々襲名されたもので、元和(げんな)元年(1615)今の大笹を切り開いた第一代から現在まで十七代を数える。江戸時代より大笹宿の名主と問屋を兼業し、質屋、酒屋も営んでいた。特に第九代大栄は、浅間鬼押しの災害に私財を投げ出して救済に奔走した。  

展望台

展望台

拡大写真(1200X700)168KB

浅間山溶岩台地の眺望

    北アルプス連峰

四阿山(あずまやさん)2354m

  本白根山(ほんしらねさん)2165m

  草津温泉

浅間山溶岩台地の眺望

パノラマ写真(2000X690)308KB

和田義男

 
  撮影 2004年8月12日
 

《 OLYMPUS E-1 》

 
14-54mm 50-200mm EC-14


500万画素


 360枚  405MB
 

 鬼押出し園を訪れてから丁度20日後の9月1日午後8時2分、浅間山が噴火した。
 火口から約2kmの範囲に火山弾が飛散し、一部では山火事も発生した。火山灰は北軽井沢、中之条、沼田、郡山などを経て大平洋岸の相馬市付近に達した。大規模な噴火は1983年以来のことだという。
 高度の科学文明を謳歌する現代ですら、火山の噴火には避難するしか手だてがなく、改めて大自然の恐ろしさを思い知った。〈 完 〉
観音堂 美晴台
  フォトギャラリーへ 特集!旅紀行目次へ 世界の名城 感動写真集目次へ  
旅紀行ジャパン目次へ   多摩川紀行
旅紀行日本の祭り 旅紀行日本の裸祭り 旅紀行日本の花目次へ
Wa☆Daフォトギャラリー

今 日

 和田フォトギャラリー

昨 日

 Copyright (C) 2000-2006 Yoshio Wada. All Rights Reserved. 

ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク