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 旅紀行ジャパン
2005年8月25日改訂

♪巡礼 KasedaMusicLabo

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比叡山延暦寺 常行堂

常 行 堂

2002年7月16日制作

  比叡山延暦寺1/2 比叡山延暦寺2/2 夏の叡山延暦寺 和田義男
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杉木立

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急な坂道

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 延々と続くアップダウンの山道を歩き、東塔地区から西塔地区へと向かう。霊峰・比叡山の名にふさわしく、杉の巨木がうっそうと茂り、光を遮る。威厳に満ちた雰囲気と特有の薫りが訪れる者の心を惹きつける。
 比叡山は、延暦寺が創建されて以来、仏教の霊地として殺生が禁止されてきたことから、山全体が天然記念物の指定を受け、野猿や野鳥の天国となっている。特に野鳥は、不如帰(ほととぎす)や郭公(かっこう)など夏鳥を中心に80種以上の鳥が見られるという。

山王院

山王院

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 最澄の御廟に続く静かな参道脇に佇立(ちょりつ)する山王院は、円珍の住房と伝える。
 堂内には、比叡山で最古の千手観音像が祀られており、別名、千手院とも呼ばれる。他の堂宇から孤立して建っており、古色蒼然としたお堂である。
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最澄

最 澄

浄土院

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浄土院(最澄の廟所)

浄土院の山道

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 浄土院は、比叡山の開祖伝教大師最澄の廟所(びょうしょ)で、比叡山中で最も清浄な聖域である。
 854年(仁寿4年)7月、延暦寺3代座主慈覚大師円仁(えんにん)がこの地に中国五台山竹林院を模して廟所を建立し、大師の遺骸を祀った。
 浄土院での修行は「十二年籠山」という。廟を守る僧侶を侍眞といい、12年の月日、大師が生きているかのように廟所に眠る最澄に仕える。
 修行内容は、3時起床。4時に朝座(読経)、最澄への朝食、五体投地、1時間の読経、阿弥陀堂で修法・読経、10時昼座、庭掃除、16時夕座、最澄への夕食、読書、自己研修、零時就寝。食事は1日2回、朝夕の最澄への献膳のお下がりの冷え切った一汁一菜と飯を食す。非常に厳しい修行であるが、これを終えないと、阿闍梨となるための回峰行に移れないという。
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常行堂

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親鸞聖人の生涯 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、1173年(承安3年)、京都は宇治にほど近い日野の里で誕生。幼名若松丸。父は藤原北家の公家・日野有範、母は源氏の流れを汲む吉光女と伝えられているが、詳細は不明。
 9歳の時出家し、比叡山延暦寺に登り修行を始めた。29歳の時、山を下りる決心をし、すでに比叡山を下りて念仏の教えを説いていた法然上人(ほうねんしょうにん)のもとを訪れ、その教えを受ける。
 1207年(承元元年)、念仏禁止令が出され、親鸞35歳の時、越後国府に流罪となる。僧の身分を剥奪され、藤井善信(よしざね)と名乗る。
 越後で生活するうちに、聖人はこの地の豪族の息女・恵信尼(えしんに)と結婚して幾人かの子をもうけ、文字通り肉食妻帯の日暮らしを送る。
 1211年(建暦元年)、法然上人とともに赦免(しゃめん)された親鸞聖人は、1214年(建保けんぽう 2年)、常陸国(ひたちのくに 茨城県)で浄土真宗を開く。常陸・下総(しもうさ)・下野(しもつけ)の3国を中心に本願念仏の教えをひろめ、20年後に京都に帰る。1262年(弘長2年)90歳で入滅。

常行堂

 常行堂(じょうぎょうどう)は桁行(けたゆき)5間、梁間(はりま)5間、一重、宝形造(ほうぎょうづくり)、栩葺(とちぶき 栩板で屋根を葺くこと)の建物で、正面に一間の向拝(こうはい 正面階段の上に張り出した廂(ひさし)の部分で参詣者の礼拝する所)をつけている。
 隣の同形式の法華堂とは廊下でつながれている。弁慶が廊下をてんびん棒にして、2つのお堂を担いだという伝説から「弁慶のにない堂」(にない堂)とも呼ばれる。
 阿弥陀如来を本尊とする常行堂は、常行三昧を修するお堂で、1595年(文禄4年)に建てられた。
 延暦寺では四種三昧行という修行が行われる。四種三昧は常坐、常行、半行半坐、非行非坐からなり、常坐は法華堂で90日間、食事とトイレを除き一日も休むことなく坐禅し続ける行であり、常行は常行堂で90日間本尊阿弥陀如来の周りを歩き続ける過酷な行である。

親鸞聖人

親鸞聖人

熊皮御影(くまがわのみえい)重要文化財
奈良国立博物館蔵

 9歳で出家した親鸞は、29歳までの20年間を比叡山で過ごした。比叡山での最後は常行堂の堂僧(堂内で不断念仏を修する僧)として過ごした。
 しかし、いくら苦行を積んでも自分の中に出てくる欲望や疑問を解消できず、そういう自分の現実に行き詰まりを感じた親鸞は、この後下山する。
 その後、念仏を説く法然(ほうねん)と出会い、自分の進む道(僧侶にも妻帯を認め、南無阿弥陀仏と唱えるだけで悪人でさえも救われるとする浄土真宗)を発見することになる。
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釈迦堂に至る道

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釈迦堂に至る道

 山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)。清陰を作る潅木に囲まれて歩く。樫、栗、杉、あるいは古寂びた洞の黒々とした倒木にも天台の教えでは悟りの機根を有するという。
 親鸞はこの西塔地区で20年を過ごした。森林浴の効果かも知れないが、昔と変わらない山奥の冷気にふれると、霊験あらたかなるものを感じるから不思議だ。
親鸞聖人旧跡

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釈迦堂

 西塔の本堂は釈迦堂となる。この堂は、1347年(貞和3年)に建てられた園城寺の弥勒堂を、織田信長の比叡山焼き討ちの後、豊臣秀吉の命で1596年(文禄4年)にここに移築したものだという。
 釈迦堂は天台様式の典型であり、堂々とした風格のある建物で、延暦寺に現存する建物では最古のものである。最澄自作の秘仏・釈迦如来を本尊とする。

釈迦堂

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《 撮影 2001年11月23日 》
 
オリンパス CAMEDIA C-3040ZOOM 300万画素 230枚

仏足石

仏足石

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 釈迦堂に向かって左すみに、釈迦の足の裏の形を刻み込んだ大きな仏足石がある。
 仏足石の起源は、中国僧・玄奘三蔵の大唐西域記にある。釈迦の入寂を知った阿難尊者(あなんそんじゃ)が悲しむのを見て、そこにあった石に足形を残したという。
 紀元前383年釈迦入滅後、2〜3世紀の間は仏像を造ることが許されなかったため、仏陀の足跡を刻み、その上に釈迦がいると考えて空間を礼拝の対象とした。仏足石はその名残だという。

 日本の歴史を動かした多くの名僧を排出した比叡山。昔は京に近いとはいえ、歩いて登るしかない山奥の秘境であり、修行するには絶好の場所であった。現代でも千日回峰など昔と変わらぬ厳しい修行の場である。
 昔と今とが同居する現代の比叡山。観光地化され、日帰りで十分に散策できる文明社会の今を生きていることに感謝しつつ、1200年もの長きにわたって激動の歴史を積み重ねてきた人々の重みを肌で感じながら叡山を後にした。(完)
  比叡山延暦寺1/2 比叡山延暦寺2/2 夏の叡山延暦寺 和田義男

比叡山延暦寺公式サイト 延暦寺 比叡山への旅(宝満寺) 比叡山延暦寺 親鸞(せかい伝記図書館)

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