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2001年9月1日制作

BGM
シャンボール城 Chteau de Chambord (世界文化遺産)
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 シュノンソーの駅

 
シュノンソー Chenonceaux

 シュノンソーは、フランス中部、アンドル・エ・ロアール県の小村で、ロアール川の支流シェール河畔に位置する。ロアール河畔の城館中屈指の名城シュノンソー城 Chteau de Chenonceau があることで知られる。

 シュノンソーの駅は、無人駅かと思うほどひっそりとしていた。写真を撮影した踏切を渡り、並木道を進むとシュノンソー城に至る。

 シュノンソー城は、フランソア1世の徴税吏トマ・ボイエが1515年から22年にかけて造営した本館部を基に、アンリ2世の愛妾ディアンヌ・ド・ポアティエが橋を付け加え、さらに、その後カトリーヌ・ド・メディシスが橋の上に2層のギャラリーを造営して、ほぼ現在の姿をとるにいたった。フランス革命の際、時の城主マダム・デュパンの人徳のおかげで破壊を免れたという。

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シュノンソー城の全景

資料画像

 
シュノンソー城  Chteau de Chenonceau

ロワール川の支流シェール川をまたぐように築かれた優美な城館は、16世紀初期に築かれたルネサンス様式の傑作で、この城を外してはロワールの古城は語れない。

 アンリー2世の愛妾であり、永遠の美女といわれたディアンヌ・ド・ポワティエは、本格的な庭園とシェール川にかかるアーチ形の橋を付け加えた。

 アンリ2世の死後、本妻カトリーヌ・ド・メディシスが城主となった。以後、天井を白と黒に塗ったアンリー3世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌ、フランス革命から城を守ったマダム・デュパンの手を経て、1863年に修復を手掛けたマダム・ブルーズに渡る。
現在はムーニエ家の私有財産だが、有料で公開されている。

 約400年間、6代にわたる城主が全て女性だということで、
「6人の奥方の城」とも呼ばれている。

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愛妾
ディアンヌ・ド・ボアチエ

国王
アンリー2世

王妃
カトリーヌ・ド・メディシス

シュノンソー城正面

シュノンソー城

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アンリー2世と二人の女性の物語

 フランソワ1世の死後、王位を継承した息子アンリー2世は、衰えるどころか益々美しさに輝く先王の寵姫ディアンヌの隠居を許さず、身分を公爵に任じ、シュノンソー城を与え、城主とした。

 アンリ2世は20才も年上(母親と同年輩)ながら、魅力あふれる美しい愛妾ディアンヌをこよなく愛した。彼女は賜った城が大変気に入り、川の中の城館から対岸に橋をかけ、庭園を造営し、使用人の住居を整備した。


 1559年、アンリー2世は、騎馬槍試合出場の際、彼の警護隊長との試合で倒され、非業の死を遂げた。これを機に王妃カトリーヌは、常々憎く思っていた愛妾ディアンヌをロワールのショーモン城を与えて追い出し、自らシュノンソー城に乗り込み城主となった。
 
 王亡き今、幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされたディアンヌは、ショーモン城に住む気はなく、彼女の領地であったパリ西郊のアネ城に移り、密やかに余生を送り、7年後、67歳で亡くなった。

 未亡人となったカトリーヌは、この麗しい城からディアンヌの残り香を消し去るために、内装調度を変更する傍ら、シェール川に架けられた橋の上に二層の城館を増築し、庭園を造園するなどして城のイメージを一新し、魅力的な女性好みの城館に変貌させ、川を跨ぐ名城を完成させた。
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シュノンソー城側面

シュノンソー城側面

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悪女カトリーヌ・ド・メディシス

 カトリーヌ・ド・メディシスは、イタリア・フィレンツェの大富豪メディチ家の出身。ルネッサンス全盛期のフィレンツェからフランスの第2王子アンリー2世と結婚。皇太子の死により、アンリー2世がフランス王になり、カトリーヌもめでたくフランス王妃になった。皇太子の死は、カトリーヌの毒殺だとする説が濃厚。

 カトリーヌは、フィレンツェからルネッサンスだけでなく、毒塗り手袋までフランスに持ち込んだ。彼女が毒殺したといわれる人物は数知れない。前述の夫アンリー2世の兄の皇太子に始まり、ナヴァール王妃(アンリー4世の母)、コリニー提督、息子のフランソワ2世、シャルル9世など。カトリーヌの3人の息子は、いずれも彼女に毒殺された疑いが強いという。

 究極は、サン・バルテルミーの虐殺事件。中学校の歴史教科書にあるように、約6,000人のプロテスタントが彼女の命令で殺された。カトリーヌ・ド・メディシスは、世界史上最大の悪女であった。

カトリーヌが橋の上に建てたギャラリー

 白亜石とスレートのタイル張りの床、美しい梁天井を持つギャラリーは、豪華な舞踏会の場所として使われた。
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シャンボール城

シャンボール城

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世界遺産(1981年) 
シャンボールの城と領地 Chateau and Estate of Chambord

  
シャンボール
 Chambord

 フランス中部、ロアール・エ・シェール県の小村。人口230(1975)。ロアール川支流コソン川のほとりにそびえるルネサンス様式の華麗な城館シャンボール城で知られる。

シャンボール城 Chteau de Chambord

 シャンボール城は、横154m、奥行き117mの建物で、部屋数440、階段数84、煙突数365と、ロアール河畔で最大の規模をもつ。フランソア1世の依頼によってイタリア人建築家ドメニコ・ダ・コルトナ Domenico da Cortona (1470頃‐1549頃)が設計したものと推測される。1519年に起工され、途中中断しながらも、1550年過ぎに完成。方形の平面に櫓(やぐら)を配する形式は中世の城塞を引き継いでいるものの、円錐状の屋根、ランタン、小塔、軒窓などはイタリア・ルネサンスの意匠を見せている。

 中央部の館は一辺67mの正方形で、四隅にそれぞれ広々としたホールが配せられ、中央にはこれらのホールをつなぐ二重の螺旋階段が設けられている。この巨大な階段は、1516年以降フランスに滞在したレオナルド・ダ・ヴィンチの案に基づいて意匠されたともいう。

 ルイ14世の時代には、モリエールがここで《町人貴族》を初演した。総延長32kmに及ぶフェンスに囲まれた5,500haの広大な敷地を有し、その大半を占める森(4,500ha)は古くから狩りの獲物の宝庫であった。夏の夜景も美しい。

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シャンボール城の裏側

シャンボール城の裏側

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 フランソワ1世が狩猟用の邸宅として建てたシャンボール城が完成したのは、ルイ14世の時代の1685年。

 他人にプライバシーを侵害されることを嫌がったフランソワ1世は城の北の塔に部屋をもち、「太陽王」といわれたルイ14世は城の中心に近い一番豪華な部屋を自分の部屋として選んだ。

螺 旋 階 段

 レオナルド・ダ・ヴィンチの設計だといわれている螺旋階段は、二つの階段が螺旋状に設けられ、それぞれの階段を進む人は顔をあわさなくてすむようになっている。
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ブロア城 Chteau de Blois

ブロア城

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ガストン・ドルレアン翼棟

フランソワ1世翼棟

三角貿易

 ロワール地方は、三角貿易で栄えた。麻が沢山とれ、それをロワールの河口にあるフランスの大西洋最大の港ナント Nantes に運び、そこからアフリカに輸出する。アフリカで麻と奴隷をトレードし、奴隷をアメリカに輸送して利益を得て、帰りにはカカオや珈琲をナントまで輸送するという三角形をなす貿易をしていた。フランスに黒人がいるのは、その奴隷がフランスにも連れてこられたからだ。三角貿易は16〜17世紀にかけて行われたが、フランス革命によって奴隷制度も廃止された。

 
ブロア Blois

フランス中部、ロアール・エ・シェール県の県都。人口5万2000(1990)。パリの南西約177km、ロアール川右岸の高台にそびえる。ブロア城を中心に発達した城下町で、この地方の行政、商業、観光の中心である。

 現存するブロア城の最古の部分は13世紀に造営された三部会室とフォア櫓である。その周辺に、ゴシック様式からルネサンス様式への過渡期のルイ12世翼棟(1498‐1503)とサン・カレ礼拝堂(1498‐1503)、ルネサンス様式のフランソワ1世翼棟(1515‐24)、古典主義様式のガストン・ドルレアン翼棟(1635‐38)などが隣接して建てられており、中世から近世までの建築史博物館の様相を呈している。宮廷が置かれていたことのある城内では、フランソワ1世翼棟の2階のカトリーヌ・ド・メディシスの隠し戸棚や、3階のギーズ公暗殺の場などが特に名高い。その他市中にはサン・ニコラ教会やアリュイ館など古い建物が残る。

 1429年にジャンヌ・ダルクがオルレアン解放のためにこの城から出陣したことは意外と知られていない。

 16世紀にはアンリー2世の妃で歴史的な悪女と伝えられるカトリーヌ・ド・メディシスが権勢を振るった。

 我々一行のバスはトゥール Tours の街に入った。ツゥールは人口25万人。パリからTGVで約1時間。古い歴史のある街で、昔は宗教の街として栄えた。ルイ11世のとき、フランスの首都となった。丸1日ロワール渓谷の古城めぐりを堪能し、爽やかな疲れが全身に広がる。

 残るイベントは、ツアーグループの夕食のみ。ソムリエ役の私の提案でミュスカデを注文したところ、何とそのホテルには置いていなかった。(断じて安宿ではない。)神戸に来て灘の生一本を飲めなかったようなもので、ガッカリするやら呆れるやら。フランスはラテン民族なので、そういところが日本では考えられない位おおらかだ。

 ともあれ、夕食後シャワーを浴び、早々に疲れた身体をベッドに横たえ、
華やかな古城の城主になった気分で深い眠りについた( fine )
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