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2004年6月29日改訂

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愛の夢第3番:リスト Liebestaume,3 Notturnos

                    夏祭ふるまい酒に塩を嘗め  北舟

2000年7月31日開設

武内宿弥(青梅大祭:住吉神社/東京都青梅市)

武内宿弥(青梅大祭:住吉神社/東京都青梅市)

 

2004年(上)

2004年(下)

2005年1/5

 

目次

2004年12月23日(木)晴  山寺や破れ土塀の雪しぐれ
   

■■■   「浅間山鬼押出し」をアップ ■■■

 

浅間山とハイカー

浅間山とハイカー

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   先ほど、旅紀行ジャパン第31集「浅間山鬼押出し」をアップした。20048月12日(木)、夏期休暇で軽井沢に滞在していたとき、路線バスを利用して浅間山の麓に広がる鬼押出し園に行った。
   軽井沢の北西に位置する浅間山は、長野県北佐久郡と群馬県吾妻郡にまたがる標高2,560mの複式活火山で、数千年前に火口が形成されて噴火を繰り返し、山頂部の釜山は現在も活動中である。
   爆発型(ブルカノ式)噴火が特徴で、噴火に際しては火砕流が発生しやすく、1108年と1783年には溶岩流も発生したという。
   群馬県吾妻郡嬬恋(つまごい)村にある鬼押出しは、天明3年(1783)の浅間山大噴火によって生まれた溶岩台地で、「火口で鬼があばれて岩を押し出した」という当時の人々の恐怖の心情がこの名前の由来となっている。
 
   噴火の激しさを今に伝える岩海(がんかい)と、豊かな大自然が織りなす浅間高原随一の景観が多くの観光客を惹きつけている。  

 

■■■  サンタクロースのクリスマス ■■■

 
 

サンタクロースと良い子たち

サンタクロースと良い子たち

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 今年もあっという間に過ぎ去り、クリスマス・シーズンを迎えた。天皇誕生日の今日、朝10時から自宅マンションで管理組合主催のクリスマス会があり、玄関ホールに飾ってあるクリスマス・ツリーのそばに小学生以下の良い子たち22人が集まった。理事長を務める筆者がサンタ役で子供たちにプレゼントを配ったり、記念写真を撮ったりして、楽しいひとときを過ごした。
 おませな男の子は、「ニセサンタだ!」と言うし、二歳の幼児は、怖がってあとずさりしてしまった。まだ泣き出さなかっただけ良かったのかも。(^^; 行事担当理事が子供たちひとりひとりに合ったプレゼントを買い、袋に入れて名前を表示してくれている。それを読み上げて手渡したのだが、ひとりひとり反応が違い、面白い。
 子供は正直で、同じ予算でも大きな包みの方がよく見えるらしい。嬉しさを素直に顔に出す子や出さない子。個性があって人それぞれだということがよく分かる。ビンゴゲームも最後まで球出しし、全員BINGOになって賞品を受け取った。次代を背負う子供たちの屈託のない笑顔にすっかりと癒されたクリスマス会だった。
 

2004年12月21日(火)晴  冬の夜ひときは白き高嶺星
 

■■■ 800万画素のデジ一眼レフ機  E-300 ■■■

E-300

OLYMPUS E-300

 2004年12月3日(金)、オリンパスは、800万画素のデジタル一眼レフカメラE-300(イーサンビャク)を発売した。14-45mm標準ズームレンズとセットで9万円という破格の安さで、全国に衝撃を与えた。

 これまでの愛機 E-1 は、ハードな使用にも耐えうるプロ仕様機で、1年2ヵ月ほど本当に良く働いてくれた。しかし、価格が高く、ボディやレンズが重く、内蔵フラッシュも外され、フォーサーズ・システムの小型軽量という利点が殆ど生かされていなかった。
 旅の写真館を主宰する者としては1kgもある50-200mmズームをリュックに詰めて我慢して旅を続けてきたが、このたび待望の小型軽量のE-300と同時発売のレンズとフラッシュを入手し、本日ラインナップが完成した。オリンパスE-300公式サイト
 嬉しいことにレンズ専用メーカーのシグマからデジタル専用設計でフォーサーズマウント対応の55-200mmも同時に発売されたので、こちらも入手した。このズームレンズはE-1の50-200mmと殆ど同じズーム域をカバーしており、しかもE-1標準ズームよりも軽いのだから、暗いということさえ我慢すれば、言うことはない。

E-300のラインナップ

E-300のラインナップ

E-300の凄い点・・・CFメモリー一杯までシャッターが切れる!

 私の一番の関心事は、祭りなど連写が必要なときに、途中でコンパクトフラッシュ(CF)への転送が間に合わず、シャッターが切れなくなることがないかということである。E-1は12枚まで連写できるが、転送が遅く、バッファーが満杯になると、シャッターが切れるまで数十秒も待たされることがあったため、かなり撮影機会を失っていたのである。
 早速、試してみた。まず、連写モードで秒間2.5コマでシャッターを切り続けると、10枚でシャッターが切れなくなった。しかし、数秒でシャッターが切れるようになる。これは、バッファーが1枚分空くと、直ぐに1枚撮影できるようになるためである。祭りなどでは、このような連写はなく、一定の間隔でカシャッ・・・カシャッ・・・と長く続けてシングルショットを重ねてゆくことになる。そこで、このようなインターバルで撮影すると、転送するCFが満杯になるまで、シャッターが切れたのである。万歳! これでシャッターチャンスを失うというトラブルは無くなった。これが一番嬉しい!

最強の二刀流

 現場でレンズ交換をすると、その間撮影機会を失うことになる。オリンパスはダスト・リダクション・システムが内蔵されているので、レンズ交換による埃が混入するというトラブルはないが、交換中に予期せぬターゲットが現れ、「しまった、間に合わない!」ということがあった。今回、ボディが2台になったので、E-300に標準ズームをつけ、E-1に軽量の望遠ズームをつけ、二刀流で臨むことにした。これで、レンズ交換不要で、フィルム換算28mm〜400mmまでカバーできる。今後、この二刀流でバサバサと斬りまくる

ソニーの40ギガストレージ

 一つ不足していたのが、メモリーである。512メガCFでは500万画素で400枚、800万画素なら260枚しか撮れない。連写していくと、あっという間に500枚、1000枚になる。これが私の得意な和田式、いや下手な鉄砲数打ちゃ当たる式写真術である。そのためにはフィルムに当たるメモリーが沢山いるが、高くて買えない。(^^; そこで、40ギガをストックできるソニーのストレージを3万円で購入した。300グラムと小型軽量で、時間が空いたときにその場で転送すれば、高価なCFが繰り返し使えるので、枚数を気にすることなく大量に撮影できるのである。これで、私の撮影環境は完璧となった。  2004年12月21日
ソニースタイルが販売するHDDフォトストレージ HDPS-M1  http://www.jp.sonystyle.com/Company/Press/040525.html
 

2004年12月10日(金)晴  寒椿多摩川すでに日を沈む
   

■■■  wadaphoto.jp へ引っ越し! ■■■

  ▲ wadaphoto.jp ▲ 当サイトは、これまで300MB(メガバイト)のレンタル・サーバー5箇所にファイルを分散して運営していたが、手狭となったため、3GB(ギガバイト)(3,000MB)の大容量レンタル・サーバーを確保し、新たにドメイン http://wadaphoto.jp/ を取得して、引っ越した。また、これにあわせてメールアドレスも master@wadaphoto.jp に変えた。   
   従来の二つのURL http://wadaphoto.com/ http://wadaphoto3.web.infoseek.co.jp/ と、旧メールアドレス desk@wadaphoto.com  は、来年の夏頃までそのままにしているので、そちらに接続すると、自動的に転送される。  
   現在、当サイトは高画質写真 3,945枚、総数19,400ファイル、ファイル総容量1,371MB となっているが、大きなスペースに引っ越したことにより、約1.6GB(1,600MB)の余裕ができたので、今後、毎週作品をアップし続けたとしても3年は持つ勘定である。これからはファイル容量を気にすることなく、高画質の作品づくりに励むことができる。  
 

 
  ▲ SAKURA Internet ▲ 新しいレンタル・サーバーは、日経パソコン最新号に紹介された SAKURA Internet という大阪のベンチャー企業が運営しているもので、この会社の設立は1999年8月、資本金2億2,500万円、従業員54名で、2004年3月の第6期決算で売り上げ140億円、純利益15億円をあげた優良企業である。 http://www.sakura.ne.jp/rs/index.shtml  
   このレンタルサーバーは、日本最大級とされる37Gbps大容量・高速バックボーンを誇る自社運営のデータセンターに設置されているため、極めて高速で、夜間のラッシュ時でもサクサクと動くのが素晴らしい。更に気に入ったのは、サポートが電話でOKということで、簡単につながり、疑問点もたちどころに解決し、2週間の試用期間中であるにもかかわらず、完全な運営体制に移行することができた。  
   私はディスク容量3ギガのプレミアム・プランで年間契約をした。初期費用1,000円を含めて何と年間無制限使用で16,000円(壱万六千円)という破格の安さである。相場より一桁少ない利用料金となっており、完全な価格破壊といえる。大容量のハードディスク(160GB)が安価(2万円)で販売されるようになったために、安い使用料金でサーバーを提供できるようになったのであろう。ラフに計算してみても、1台に50人が同居できるため、年間80万円を稼ぎ出すことができる訳で、リーズナブルなビジネスといえる。これなら、個人でもポケットマネーで大規模サイトを運営することができる。IT様々である!  
 

 
  独自ドメイン 独自ドメインは、年間3,800円で取得した。独自ドメインを取らなくても、サーバーの長いサブドメインをもらってサイト運営が可能だが、Internet Explorer のアドレス欄に wadaphoto.jp (ワダフォト・ドット・ジェーピー)と打ち込むだけで、アクセスできるのが嬉しい。メールアドレス名も選ぶことができ、 master@wadaphoto.jp とした。ここにメールすると、数秒で私の so-net のメールアドレスに転送されてくる。Sinple is best! で、これがドメイン取得の大きな魅力である。  
 

 
   ▲ 裏口入学禁止! 新しいサーバーに移転した際、個別の作品を見に行くには、全てトップページに入らないと行けないようにした。従来は裸祭りなどのジャンル毎に目次を設けていたが、それだと、裸祭りの目次をお気に入りに入れ、そこから入ってくる人が沢山いて、アクセス実数を把握できなかったことから一本化したのである。つまり、裏口入学禁止ということである。(^^;  
   そのお陰で、1日1000件前後だったトップページのアクセス件数が、昨日は2500件に増えていた。ということは、これまでは裏口入学が半数以上いたということになる。これからは来訪者は正面玄関からしか入れないので、正確な数を把握することができ、1日2000件のアクセスが続けば、来年の6月には100万アクセス達成となるので、本当に楽しみである。(^^  

2004年11月26日(金)晴  川の音の近くに聞こゆ良夜かな  山里の鐘の音遠き秋の月
   

■■■  感動写真集第44集「唐津くんち」をアップ ■■■

   先ほど、感動写真集第44集「唐津くんち」をアップした。この作品は、私と同じ青梅市に住んでおられる写真家の深見重利さんが、国の重要民俗文化財の華やかな「唐津くんち」の全容を余すところなく切り取られた傑作である。さすがプロの写真は凄いと、私は完全に脱帽した。  
 

唐津くんち

 
   曳山囃子(やまばやし)の優雅な調べのなか「エンヤ、エンヤ」「オイサ、オイサ」と掛け声が響く。唐津くんちは、唐津っ子の産土神(うぶすながみ)である唐津神社の秋祭りで、400年の歴史がある。昭和43年(1968)から本殿祭を10月29日とし、宵曳山(よいやま)・御神幸・町廻り(まちまわり)は11月2日から4日までとなった。  
   神輿の御旅所(おたびしょ)への御神幸(ごしんこう 渡御)は、江戸時代の寛文年間に始まったといわれ、「漆の一閑張り(うるしのいっかんばり)」という技法で製作された曳山(ひきやま)は、1番曳山(いちばんやま)の赤獅子(あかじし)が文政2年に奉納されて以後、明治9年までに15台が制作・奉納された。このうち紺屋町(こんやまち)の黒獅子が明治中期に消失したため、現存は14台となっている。  
 

本町(ほんまち)八番曳山金獅子

 

魚屋町(うおやまち)五番曳山鯛

本町八番曳山金獅子   魚屋町五番曳山鯛

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   祭り期間中の人出は50万人を越えるといわれ、長崎市諏訪神社の長崎くんち、福岡市櫛田神社の博多おくんちとともに「日本三大くんち」の一つに数えられる。昭和55年(1980)国の重要無形民俗文化財に指定された。   
   11月2日(火)の宵曳山(宵ヤマ)は、唐津おくんちの前夜祭で、14台の曳山(ヤマ)に提灯を飾り、町内を曳き歩くもので、秋の夜に独特の雰囲気を醸し出す。11月3日(水)は御旅所神幸で、祭りのクライマックスの曳き込み・曳き出しが行われる。午前9時半、お旅所へ向かう神輿を曳山が先導して市内を巡行。午後0時に御旅所と呼ばれる砂地に一番曳山「赤獅子」を先頭に所定の位置に次々と曳山が曳き込まれる。  
   11月4日(木)は、有終の美を飾る町廻りである。 前日の御旅所神幸を終えて各町内に持ち帰られた曳山が再び唐津神社前に集合し、午前10時30分、花火を合図に1番曳山から順番に出発。2日の宵山と同じ市内東廻りのコースをゆっくりと進み、午後零時頃にJR唐津駅前に並べられる。午後3時に駅前通りを出発して市内西廻りのコースを巡行し、フィナーレの曳山展示場に曳山が納められ、唐津くんちの幕が閉じる。この最後のフィナーレでは、感極まって涙ぐむ若者の姿も見受けられる。  

2004年11月19日(金)雨  道問はば微笑み返る草の花
   

■■■  オリンパスE-300レンズセット9万円の衝撃! ■■■

   今日、日経パソコン11/22号が届き、Newsを見てビックリ! オリンパスE-300(800万画素)レンズセット(本体+ズイコーデジタル14-45mmF3.5-5.6)が9万円で予約が始まったという。早速ビックカメラ.COM のネットショッピング価格をチェックすると、  
 

オリンパスE-300レンズセット 発売日:2004/12/03 予約販売価格:99,800円(税込) ネットポイント 10%(9,980P)

 
   となっており、ポイントを差し引きすると、確かに税込で9万円となっていた。予想では、ボディが10万円を切り、2万6千円のレンズを入れると12万円程度というのが大方の見方だった。それでも安いと思っていたのに、9万円とは衝撃の価格である!  
 

800万画素のオリンパス E-300レンズセット

800万画素のオリンパス E-300レンズセット

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資料

 
 

 
  戦国時代 今、コンパクト・デジカメ市場のシェア争いは一段落し、残された一眼レフデジカメ市場が最後の決戦場で、戦国時代さながらの状態になっている。コンパクト機に満足できない中上級ユーザーが一眼レフデジカメにレベルアップしようと、熱い視線を送っているのである。  
  価格調べ 他社の一眼レフデジカメのビック最新価格を見てみると、先行するキャノン EOS 20D(820万画素) EF-S18-55 U レンズキットが実質19万円(ポイント還元後の価格、以下同じ)、ニコンD70 (610万画素)レンズキットが実質13万5千円、ペンタックス*ist Ds(610万画素)+smc PENTAX‐DAズーム18−55o F3.5−5.6 AL レンズキットが11万5千円、コニカミノルタ α-7 DIGITAL(610万画素)(ボディのみ)が18万円である。  
  800万画素時代 コンパクト・デジカメですら800万画素時代に突入しているのに、キャノン EOS 20D レンズキットだけが820万画素で、それが19万円と、800万画素のオリンパスE-300レンズセット9万円の倍以上の価格である。ほかの機種は全て数年前に出た610万画素なのに価格が高く、これでは勝負にならない。  
  戦略を誤ったコニカミノルタ 一番出遅れたコニカミノルタは、今日全国紙に新機種 α-7 DIGITAL を発表したが、610万画素とは戦略を誤ったようで、手ぶれ防止機能を売りにしているが、ボディだけで18万円と価格が高く、誰も買わないだろう。コンパクト機と違って、ある程度の重量があり、高速シャッターがついている一眼レフは、手ぶれの心配はほとんどなく、余り必要性を感じない。  
  レンズ交換時のゴミ問題 一眼レフデジカメで一番切実な問題は、レンズ交換の際のゴミの問題である。これを解決したのはオリンパスしかなく、E-300は安価にもかかわらず、プロ機E-1と同じダスト・リダクション・システムが内蔵されている。もう、オリンパスの一人勝ちになることは間違いない。これでデジタル専用設計のフォー・サーズシステムが急速に普及することだろう。オリンパスも出遅れていたが、E-300の発売は起死回生の逆転ホームランといったところである。オリンパスに脱帽!!  

2004年11月11日(木)  月の夜そぞろ歩きの川明かり
   

■■■  「四00年目の江戸祭禮」が出版! ■■■

   昨日、武蔵野書院から「四00年目の江戸祭禮 その風景と情熱の人々」という長い題名の単行本が送られてきた。A4サイズ・120ページ全てがグラビア・カラー刷りという豪華な仕様の初版第一刷で、発行日は2004年11月13日となっている。  
 

 
   この本には、私の写真32枚が使われている。その中には1ページ大のもの3枚と半ページ大のもの5枚が含まれている。これまで、多くの出版社の単行本や雑誌などに写真を提供してきたが、これほど大量の写真が大きく掲載されたことはなかったので、大感激である。  
 
「四00年目の江戸

祭禮まつり

」の表紙・背表紙・裏表紙

四00年目の江戸祭禮

拡大写真(1470x1040)136KB

 
   2004年7月26日(火)、思いがけない e-mail が届いた。  
 
盛夏の候 時下益々ご発展のこととお慶び申し上げます。初めてお便り申し上げます。私ども「江都天下祭研究会 神田倶楽部」(以下当倶楽部)と申します。普段は天下祭を中心とした祭礼研究・山車研究・現地に足を運んでの祭礼研究、またその成果を本に纏めるなどの活動をしております。
 
昨年は江戸開府400年ということもあり、千代田区では様々な催しが開かれましたが、そのなかでも11月24日に開催された江戸天下祭は記憶に新しいところです。多くの人々の尊い努力によって実現された「天下祭」、私たちはこの行事を単なるパレードとしてではなく、一冊の本に纏め、後世に残すべき重要な祭典と考えております。そこで当倶楽部では今回の行事を纏めた記念誌を計画しております。
 
すでに山車の展示・運行に関わられたすべての団体に原稿等の協力を要請し、ご了解をいただき、鋭意(編集作業)進行中でございます。ただ、現場で山車の組立や運行をされた方々には、この大がかりな作業の中で写真撮影まで手が回らなかったとみえ(スナップ写真等は多数ありますが)、迫力のある写真を見つけることが難しいのが実情です。
 
そこで、以前から拝見致しておりましたが、貴ホームページを彩るすばらしい天下祭のお写真を使わせていただくことができないものかと思い、使用許可を賜りたく電子メールを送らせていただいた次第です(お手紙を出そうと思いましたが送付先が解らなかったためこのような手段になりました。失礼の段ご寛容下さい)。
 
当倶楽部は皆手弁当でやっているクラブでして、謝礼に関しては記念誌に協力者としてのお名前を載せる程度のことしかできませんが何とかご理解願いたくお願い申し上げる次第です。ご返信鶴首しております。
 
江都天下祭研究会 神田倶楽部 会長 田畑秀二
 
 
田畑会長による発刊の挨拶

挨拶文の中に、私の写真提供のことに言及されている(黄色の線)。

四00年目の江戸祭禮

 
   2003年5月に江戸開府400年・神田祭と12月に江戸開府400年・江戸天下祭をアップしていたので、これをご覧になった田畑さんから写真提供の依頼があったもので、今更ながらアップしただけで多くの方に作品を鑑賞してもらえるinternetの素晴らしさに感動した。  
 

 ボランティア団体の神田倶楽部が実質的に400年目の天下祭を取り仕切り、今度は記念誌を作成するという。私は思わぬ社会貢献になる喜びから、全面的に協力することをお伝えし、500万画素の原画を全て収録したCDを事務局にお送りした。その後、要請により2004年5月にアップした青梅大祭の5枚の山車人形の写真も提供し、ゲラ刷りを何度かお送りいただいて調整し、このたび完成したものである。

 
 
天下祭に蘇る

竹内宿禰たけのうちすくね

青梅市森下町の人形がA4大で掲載。提供した画像に(撮影:和田義男)の表示がある(黄色の線)。

天下祭に蘇る竹内宿禰

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   本誌は、徳川家康が江戸幕府を開いてから400年の節目に当たる平成15年(2003)に催された「お江戸日本橋創架四〇〇年」「神田祭」「小舟町・大提灯」「江戸天下祭」の4つのイベントを一冊に凝縮した豪華保存本である。江戸時代の版画をはじめ、明治・大正・昭和の古写真など、お祭りファン垂涎の貴重な資料が収録されている。  
   また、一区一番組「よ組」の組頭(鳶頭)の西出幸二さん(日本最後の纏まとい持ち)・作家の森まゆみさん・神田倶楽部会長の田畑秀二さんによる「江戸噺あれこれ」と題する対談は、山車の御仮屋建設の苦労話を中心に話題が多彩で、秀逸である。  
 

 
 

本誌の詳細

 
  タイトル:『四〇〇年目の江戸祭禮(まつり) その風景と情熱の人々』
著  者:江都天下祭研究会 神田倶楽部編
付  録:1.山王45本・神田36本の山車が一覧できる『納札に見る天下祭山車』・2.『江戸開府400年に帰ってきた天下祭の山車』
仕  様:A4上製本・122頁(うち120頁カラー/2頁モノクロ)
価  格:3000円(本体2857円+税)/1冊
ISBNコード:4-8386-0410-6
 
  本書案内:(帯書より)『江戸開府400年』で沸いた2003年。『名橋「日本橋」創架400年』をはじめ、さまざまな記念行事が催された。多くの人々の情熱と努力によって織りなされた奉祝行事の風景と、はるばる『江戸天下祭』に参集したお江戸にゆかりのある山車を、豊富なカラー写真とともに一冊の本に凝縮した。
発行所:武蔵野書院
     〒101-0054 東京都千代田区神田錦町3-11 電話03-3291-4859 FAX03-3291-4839 E-mail pub@musashinoshoin.co.jp
 
  購入方法:全国の書店から注文可。東京神田の三省堂本店・東京堂本店に常備するが、書店に並ぶのは早くても11月20日以降になるとのこと。武蔵野書院宛に直接注文すれば即日出荷されるが、送料が概ね400円(1冊・地域や冊数によって若干異なる)かかる。  

2004年11月7日(日)晴
   

■■■  感動写真集/第41集「坂越の船祭り」をアップ ■■■

   全国の秋祭りも終わりに近づいてきたが、今年の秋祭りの締めくくりとして、さきほど、感動写真集第41集「坂越(さこし)の船祭り」をアップした。この作品は、10月10日(日)兵庫県赤穂市坂越の大避(おおさけ)神社で行われた船渡御祭の模様をちばあきおさんが撮影されたもので、日本古来から伝わる祭りの感動を追い求めておられるちばさんの第7作にあたる感動巨編である。  
   300年の伝統を誇る「坂越の船祭り」は、国の無形民俗文化財に指定された神事で、裸の若衆組が伝馬船を漕ぎ競い、数々のアトラクションを披露し、最後は対岸の生島(いきしま)御旅所に渡御船団を曳航するという壮大な船祭りである。今回、CD2枚という大量の画像の中から厳選し、7頁64枚という超大作となった。  
 

天高し坂越の浦の櫂伝馬

櫂伝馬

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秋の暮伝馬曳きゆく渡御船団  

 

秋の海島の御旅所暮れゆきぬ

船渡御   神輿一体走り

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海の男のロマン

 
   褌をきりりと締めた海の男たちが伝馬船を漕ぐさまは江戸時代さながらで、勇壮な瀬戸内の水軍を彷彿とさせる。後半は一転して雅な平安絵巻が繰り広げられる。9隻を珠数つなぎした渡御船団をたった2隻の櫂伝馬が曳航するさまは、凄いというほかはない。  
   高度な機械文明を謳歌する現代に、全て人力で執り行われる海の祭典! 全く変質することなく、現代に伝わる伝統美! 国の無形民俗文化財にふさわしい壮大なページェント! 言葉では言い尽くせない海の男のロマンに感動を新たにした。  
   大避神社に電話取材したところ、宮司が留守で、奥様に応対いただき、懇切丁寧な説明を受けた。今年は台風が何度も襲来し、生島御旅所は大きな被害を受けたという。坂越浦の綺麗に舗装された浜辺は、打ち寄せられたゴミで覆われ、祭りの開催が危ぶまれたそうで、大勢の人が汗を流して綺麗にした。浜に立てられた大きな幟は、前日に立ててやっと祭りに間に合ったという。   
   夕刻から豪雨となったが、神事は予定通り執り行われ、神輿は復路も船渡御により、深夜、無事宮入した。櫂伝馬の若衆は、濡れ鼠になりながらも、立派に勤めを果たしてくれたという。  
   国の無形民俗文化財の晴らしい祭典にもかかわらず、観客は僅かに五千人(神戸新聞)という。internetでこの作品を目にした全国の祭りファンが一人でも多く坂越に足を運ぶことを願っている。  
   大変な苦労をして伝統の祭りを継続しておられる坂越の方々に心から感謝申し上げ、これからもこの素晴らしい祭りが末永く存続することを祈念したい。  

 
2004年10月30日(土)雨
   

■■■  感動写真集第39集「神輿一体走り」をアップ ■■■

   さきほど、感動写真集第39集「神輿一体走り」をアップした。この作品は、10月7日(水)愛媛県松山市の勝岡八幡神社で行われた神輿一体走りと川狩りの模様を、ちばあきおさんが撮影されたもので、日本古来から伝わる祭りの感動を追い求めておられるちばさんの第6作である。  
  神輿一体走りは、松山市無形文化財に指定された神事で、裸の若者達が神輿を担いで参道を駆け抜ける様は圧巻である。川狩りは、久万川が汚染されたために途絶えてしまった神事が、住民運動の結果、行政が専用施設を建設し、33年振りに復活した貴重な事例である。  
 

さやけしや裸の健児疾走す

川狩りや褌衆の頬被

神輿一体走り

 

川狩り

神輿一体走り   川狩り

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「坊つちゃん」と田舎

 
   夏目漱石の小説「坊つちゃん」は、何処にも松山という文字がないが、漱石が松山中学校の教師時代の体験がモチーフになっていて、舞台が松山であることは間違いない。江戸っ子風の坊ちゃんが、松山という田舎の風習や文化にとまどうエピソードが散りばめられていて、子供のときから大好きな小説である。  
   思えば明治維新以後、文明開化の嵐が吹き、敗戦後の教育においても田舎が恥と教えられ、多様な日本の伝統文化が露の如く消え去ってきた。私は戦後生まれの団塊の世代で、高知の小学校で育ったが、先生は「おら、おんし、ねや」という方言を禁止し、「ぼく、きみ、ねえ」と言うことを強制した。「おてやん、おかやん」は「おとうさん、おかあさん」となり、長い間育まれてきた方言は消え去ってしまった。  
   今、写真の取材であちこちの観光地に行くが、共通することは、その土地でしか味わえない文化をアピールしていることである。学校によってはその土地の方言を教えているところもあると聞く。教育方針が180度転換し、今や地方の時代となった。田舎で生まれ育ったことに誇りを持ち、田舎特有の文化を持つことが、なんと豊かなことなのだろうと、やっと気付きはじめたのである。  
 

みんなちがって、みんないい。  金子みすずの詩「私と小鳥と鈴と」より

 
   松山には「一体走り」や「川狩り」という全国的には無名の素晴らしい無形文化財があった。こゝには日本の気候風土に根ざした裸文化が息づいている。子供たちは褌(ふんどし)が男の伝統衣装であることを習った。  
   「川狩り」に至っては、役所が巨費を投じて、久万川に代わる専用施設を建設し、川の汚染で途絶えてしまった田舎の伝統文化を見事に復活させた。とても素晴らしいことで、心底から感激した。  

2004年10月24日(日)晴  少年のふぐり見えたり草相撲
   

■■■  日本の裸祭り第23集 「船橋大神宮子ども相撲」をアップ ■■■

 
 昨夜、日本の裸祭り第23集「船橋大神宮子ども相撲」をアップした。画像は165枚、22.4MBと、見るだけでも大変な大作となった。これも出版物と違って、自分のホームページに好きなだけ掲載できるinternetの有利な点であろう。 出版物であれば、いったん手元を離れて市中に出回ると、誤りに気付いてもどうすることもできないが、ホームページはいつでも修正や追加ができる。有り難い世の中になったものである。
 これまでの裸祭りの取材で、日本の国技とされる相撲がなかったことに気が付き、internetで検索して、船橋大神宮の奉納相撲を知り、取材した。10月20日の例大祭に行われる大人の部は、台風23号の直撃により中止となったため、子ども相撲のみの作品となった。400年の伝統を受け継ぎ、日本の裸文化の華である相撲を変質させることなく伝えている船橋大神宮氏子青年部の皆さんの熱意には心を打たれた。

 

 子供相撲の熱戦を見ている内に、筆者の小学校時代を思い出した。その頃は殆どの学校に屋根付きの相撲場があり、授業の一環として男子は土俵で相撲を取った。 まわしは直接肌に締めるものと決まっていた。女子は観戦するだけだったが、四つ相撲となって立褌(たてみつ)が緩み、あるものが見えたとき、きゃーと言いながら手で顔を覆いながらも、指の隙間から覗いていた女子のことが忘れられない。
  少年のふぐり見えたり草相撲   北舟    
 

2004年10月17日(日)快晴  太陽を身いっぱいに宮相撲
   

■■■  船橋大神宮奉納「子ども相撲大会」 ■■■

   今日、朝5時起きして船橋市にある船橋大神宮に行った。朝8時に着いたので、事前の取材も十分にでき、9時からの開会式に次いで、小学生の奉納相撲が執り行われた。主催者は船橋大神宮奉納相撲執行委員会だが、実質は氏子青年部である。10月20日(水)の秋期例大祭に奉納相撲が行われるが、学校があるので、子供の部が日曜日に行われる。  
   今日は快晴に恵まれ、終日木漏れ日の下で熱戦が繰り広げられた。主催者の話によると、日本相撲協会は、子供相撲はパンツの上にまわしを締めても良いというルールになっているが、船橋大神宮の奉納相撲は、国技の伝統にしたがい、女子以外は直接肌にまわしを締めさせているという。挨拶の中で、褌を締めて相撲を取るという言葉があり、子供たちは相撲まわしも褌と呼ぶことを知ったようだ。約140人(うち女子11人)の参加があり、男女別のまわし小屋で氏子青年部の用意したまわしを締めてもらい、競技に臨んだ。  
 

はっけよい!

はっけよい!

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土俵際の攻防

 

団体戦小学校の部に優勝した海神小学校

土俵際の攻防   団体戦小学校の部に優勝した海神小学校

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   この奉納相撲は、400年ほど前の江戸時代、徳川家康が船橋に鷹狩りに来たおり、漁師の子弟が相撲を取ってみせたことからはじまったという。途中、中断があったものの、25年ほど前に復活したという。再開後四半世紀を迎え、今年は土俵を新調し、幾久しく、伝統の奉納相撲を伝えていくという意気込みが感じられて感激した。  
   競技は個人戦と団体戦があり、個人戦は3・4年の部と5・6年の部、番外に女子の部がある。礼にはじまり礼に終わるという作法をキチッと指導され、姿勢の悪い子はその場で直され、蹲踞(そんきょ)の姿勢も正しくできるようになり、日本の伝統文化が変質することなく続いているのが嬉しい。  
   表彰式を終えて、お開きになったのが午後3時。たっぷり7時間の取材で1500枚、1720MBを撮った。台風23号が来ているので、20日が雨なら、大人の部はパスする予定で、子供の部だけでも作品に仕上げるだけの材料を仕入れることができたので、後日、作品にまとめて発表したい。  
 

 
   嬉しいことに、昼の休憩時間に、二人の方と歓談する機会があった。千葉から私に会うために来られたというWさんは、いつもWa☆Daフォトギャラリーを見ておられるという。徒然日記かお便りコーナーをみて、今日、私が取材に来ることを知り、この神社に来られたという。ご出身が遠州・横須賀で、天下祭りに山車を出展したところで、地元の三熊野神社大祭も盛大に行われるので、是非、取材して欲しいということだった。立派な資料をいただいた。非常に光栄に思った。  
   もう一人は東京から来られた若い方で、私のホームページを見て、1年ほど前から写真をはじめられたという。400万画素・10倍ズームのデジカメを持っておられた。今日は、私のホームページを見て奉納相撲の開催を知り、来たのだという。率直に嬉しく思った。これからも取材の先々で色々な方々との出会いがあることを楽しみに、船橋を後にした。  

2004年10月16日(土)曇  仏堂も籠り入りたる刈田かな
   

■■■   「秋の白川郷」をアップ ■■■

 

明善寺本堂(奥)と庫裏

明善寺本堂(奥)と庫裏

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   先ほど、旅紀行ジャパン第30集「秋の白川郷」をアップした。2004年10月7日(木)、家内と二人で立川からクラブツーリズム(株)のバスツアーに参加し、秋色の白川郷に行った。2004年2月6日(金)に雪の白川郷のライトアップを見に行って以来、二度目の白川郷である。幸い秋晴れに恵まれ、バスは運良く狭い荻町(おぎまち)駐車場に入ることができた。
   白川郷には約100軒の合掌造りの家屋が建ち、そのうち50軒が人の住む民家である。なかでも萩町は、合掌造りの民家が一番よく集積している集落として知られる。大きい家には20〜30人もの大家族が生活していたという。
   白川郷の家屋は棟(むね)が南北に沿うように建てられている。 強い季節風の風向にあわせて風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を減らし、夏涼しく冬保温されるという長年の経験による知恵だという。
   白川郷の秋は、稲の刈り取りも殆ど終わり、どぶろく祭のあと、冬ごもりに入る。半年の間、厳しい冬の中で生活する知恵が詰まっている白川郷。それが世界文化遺産という評価につながった。しかし、厳しい人々の暮らしが遺産と共にあることを忘れてはならない。
 
 

 
 

世界遺産と人々の生活

 
   白川郷には現在も世界遺産とともに暮らす人々がいる。殆ど昔のままの設備である。庫裡の囲炉裏の間にテレビはなかった。合掌屋にアンテナがあるのはおかしいのだろう。洗濯物も大っぴらには干せない。我々のように冷暖房完備の快適さからはほど遠い生活である。  
   それでも、庄川の電源開発のお陰で国道が整備され、世界遺産になってからにわかに観光客が来るようになり、お陰で地元の若者の就業機会が増え、典型的な過疎の村から一転して日本一美しく、そして豊かで希望のある村作りを目指すことができるようになった。  
 

◆ ◆ ◆

 
   私が行ったときに、建設中の民家が一軒あった。 japan/images/akisirak01l.jpg の写真中央に写っている。展望台から見ると、その家が建ったためにうしろの合掌屋が隠れてしまっている。我々観光客は、遺跡のように、全く手つかずのままの景観を保存して欲しいと願うが、地元住民にとっては大変なことだと思う。  
   新築中の家は合掌屋ではなく、普通の民家のようである。残念に思うが、彼らにも現代文明の恩恵を受けた快適な生活を求める権利があると思う。だから建築許可が下りたのであろう。彼らは、生活の場と世界遺産の保存という相反する命題をどう解決するかで、苦悩しているのだと思う。  
   観光化のお陰で、合掌造りが世界遺産として何とか保存され存続していることだけは間違いない。あの真冬に、ライトアップを見るためにこのような秘境に大勢が押し寄せる。観光資源としての価値がなければ、誰からも見向きもされず、過疎化が進み、老人の村となり、やがては貴重な合掌屋が朽ち果ててしまうところだったことを考えると、日本が世界に誇る「人の住む世界遺産」としてPRし、世界中から多くの人々が白川村を訪ねてロマンと感動を新たにして欲しいと願わずにはいられない。  

 
2004年10月10日(日)雨    黙々と猿の頬張る秋薊
 

■■■  「瀬戸物の里」アップ ■■■

 
 

洞本業窯(ほら ほんぎょうがま)

洞本業窯

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 昨日、旅紀行ジャパン第29集「瀬戸物の里」をアップした。普段食器として使う陶器類のことを瀬戸物というが、その用語例は永禄6年(1563)に織田信長が下した制札(せいふだ)に始まるという。
 一般に用いられるようになったのは、江戸時代に入って窯業(ようぎょう)生産の主座から転落した瀬戸と美濃(みの)で大衆向けの日常食器類が焼かれ、それが全国的に広く流通するようになってからだといわれる。
 通常、瀬戸物の語を用いるのは近畿地方以東の東日本であり、中国、四国、九州などの西日本では唐津物(からつもの)というが、その境界ははっきりしたものではなく、高知で育った私は、瀬戸物のお世話になった。

窯垣の小径(かまがきのこみち)

窯垣の小径

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   瀬戸焼は鎌倉初期に宋(そう)で陶法を学んだ加藤四郎左衛門景正が窯(かま)をひらいたのが始まりといわれ、近世には尾張藩の保護を受けて発展した。一時九州産の磁器に押されて衰退したが、文化年間(1804‐18)加藤民吉が藩の命で磁器の製法を導入して盛り返した。  
   明治時代に入り石炭窯の導入、瀬戸陶器学校の設立などにより近代化が進み、さらに第二次世界大戦後、重油・ガス窯が用いられるようになって食器のほかにノベルティ(装飾陶器)、玩具、電気用品などが輸出用に大量生産され、全国屈指の陶磁器生産地となっている。  
   尾張瀬戸駅から東へ約1.5qの洞町(ほらまち)は、谷間の地形を生かして多くの窯が造られ、磁器を新製と呼ぶのに対して本業と呼ぶ陶器生産の中心地の一つであった。往時は、町内の細い路地を焼き物を積んだ荷車や担ぎ手と呼ばれる天秤棒をかついだ運搬人が行き来し、賑わったといわれる。そんな狭い道の中に、窯垣の小径(かまがきのこみち)と呼ばれる路地がある。この小径には、多くの窯垣(かまがき)が見られる。  
 

 
 

 江戸末期以降、有田焼など硬質で光沢のある磁器に押されてきた瀬戸焼であるが、往時の栄華を忍ぶ窯元や館など古い町並みが残され、落ち着いた雰囲気の焼き物のふる里があった。有田、備前、九谷のように人間国宝を輩出し、何百万円という高価な製品が並べられているところと比べ、大衆食器に販路を求めた瀬戸焼は、非常に地味な存在である。しかし、普通名詞化した「せともの」という言葉はどこか庶民的で懐かしく、親しみを感じる。これからも頑張ってもらいたい。

 

2004年10月2日(土)晴  今日の月ふと立ち止まる通勤路
   

■■■  オリンパスからE-1の普及機・E-300の発表! ■■■

 

ハイアマ&アマチュア向けの戦略機

 
   2004年9月28日、待望のオリンパス一眼レフデジカメ新型モデルE-300が11月下旬に発売されることが正式に発表され、先日、オリンパスからカタログが届いた。CCDが800万画素となったほか、他社にはないダスト・リダクション機構は健在である。内蔵ストロボが復活したほか、新たにシーンプログラムが採用され、カメラ任せの和田流には有り難い機能が揃った。  
   他方、値段を10万円以下に抑えたため、E-1に比べて厳格な水密性に若干の低下がみられるが、プロのように酷使しない限り、問題なさそうだ。連写速度もE-1の秒間3コマから2.5コマに落ちた。しかし、これも私には殆ど問題ではなく、連写枚数が少ないと撮影機会を失ってしまうので、何枚続けて写せるかが大事である。カタログによると jpg の連写枚数がメモリーに依存するという表現なので、はっきり分からないが、オリンパス関係者によると、E-1の12枚より遥かに良くなっているということなので、かなりのパワーアップがはかられていることは間違いない。デザインはペンタプリズムがなくなって実用本位になり、コンパクトに収納できるのは有り難いが、好みが分かれるところだろう。  
   ペンタックス*istDsと同様の戦略的な価格設定は、先行するニコンD70やキャノンEOS20Dの脅威となるだろう。ニコンD70はボディだけでも15万円と価格が高い上に610万画素なので、現在レンズ込みで13〜14万円の格安セールをするinternetショップも現れ、値崩れを起こしている。先日、発売になったばかりのキャノンの820万画素機・EOS20Dは、ボディだけで実売17〜19万円もするので、ペンタックス*istDsやオリンパスE-300の倍近い価格では競争力はない。11月初旬発売予定のペンタックス*istDsは、10万円を切り、小型最軽量をうたっているが、610万画素なので、安いだけで先進性がない。こう見てくると、800万画素のE-300は大変な戦略機だといえる。  
 

800万画素のオリンパス E-300

800万画素のオリンパス E-300

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資料

 
 

 
 

小型軽量の旅行用一眼レフ機

 
   11月下旬にオリンパスから発売されるのは軽量ボディだけでなく、ZUIKO DIGITAL 14-45mm(35mm換算で28-90mm)と 40-150mm(35mm換算で80-300mm)の2本のズームレンズに加え、外部フラッシュFL36 も新発売になる。E-1のレンズ群と比べると、小型軽量化のために明るさを犠牲にしているが、光学性能には一切の妥協はなく、ボディが更に高画素になっても十分に対応できるようオーバースペックとなっているという。  
   ボディとレンズ2本の合計重量を計算すると、2,165g のE-1に比べて1,290g のE-300は約40% 875g も軽くなっており、小型化されているので、E-300 シリーズは旅の写真を撮る私のために作られたようなものである。(^^; とりわけ40-150mm レンズは425g とE-1の標準ズーム435g よりも軽いのある! 旅行の際は1,070g もある50-200mm(35mm換算で100-400mm)をリュックに入れなくてすむだけでも有り難い。(^^;  
   E-1からE-300にそっくり乗り換えれば、旅が楽になると思うが、今のところ、E-300の800万画素ボディにE-1の標準ズーム14-54mm(35mm換算で28-108mm)をつけ、E-1の500万画素ボディに40-150mm(35mm換算で80-300mm)の軽量ズーム(マニュアル撮影時のみEC-14コンバータ使用可で110-420mm)をつけて二刀流で行こうかと考えている。これなら現場でレンズ交換が不要で、シャッターチャンスを逃すことはない。  
   しかし、タムロンの新製品28−300mm(35mm換算で43-465mm)420g にはかなわない。きっとタムロンもオリンパス E-System 用にいつかこのような小型高性能のレンズを出してくれることと思う。現在、シグマがフォーサーズ規格対応レンズを作ることになったそうで、今後が楽しみである。  
 

タムロン新型ズームレンズ  http://www.tamron.co.jp/lineup/a061/index.html

 
   あとは、E-300システムのフォーカシング性能や画質がどうかということだが、こればかりは試してみないと分からない。E-300を手にしたオリンパス関係者は、E-1よりキビキビと動き、機動力が良くなっていると言っていた。昨年来、E-1の改良点を提案してきた私にとって完全に満足でるマシンに仕上がっているようで、期待がふくらむ。発売と同時にフルセットを入手し、読者に使用感をお伝えしたい。  
 

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オリンパスE-System オリンパスE-300 オリンパスE-300用レンズ SONY Flash デジカメWatch E-300とE-Systemの今後

 
   

■■■  感動写真集第36集「玉祖神社・占手神事」をアップ ■■■

 

神に額ずく軍士たち

太陽を掴んだ神輿!

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   今朝、感動写真集第36集「玉祖神社・占手神事」をアップした。この作品は、9月25日(土)山口県防府市の玉祖(たまのおや)神社で行われた占手神事(うらてのしんじ)の模様をちばあきおさんが撮影されたもので、祭りの感動を追い求めておられるちばさんの第5作である。
 

   この神事の起源は、仲哀(ちゅうあい)天皇が熊襲(くまそ)征伐のおり、神功皇后(じんぐうこうごう)とともに玉祖神社に参拝し、軍の吉凶を占わせた古式によると伝えられている。
   所作が相撲に似ているところから「占手相撲」ともいわれる。呪術的儀礼に富んだこの神事は、山口県の無形民俗文化財に指定されている。
   玉祖神社は、周防国(すおうのくに)一ノ宮として由緒深く、祭神は三種の神器の一つである八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造った玉祖命(たまのおやのみこと)である。
 
   玉祖命は五伴緒神(いつとものおのかみ)*の一柱として中国地方を治め、この地で歿したと伝えられ、社殿の北、約500mにある玉岩窟(たまのいわや)はその墓所と云われている。  * 五伴緒神(五部神):日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従ってこの国に降った五神。  
 

 神社の創建は余りにも古くて定かでないが、景行(けいこう)天皇12年(西暦82年?)の西征に当たって戦勝祈願のために奉納されたといわれる宝剣が御神宝として伝わっているという。

 
 
 
   拝殿の儀式が終了すると、関係者は神門の石畳に移動し、宮司のお祓いにより、占手神事の本番に入った。神事の主役は、白い晒木綿の腹巻と褌を締めた二人の男性で、軍士(ぐんし)と呼ばれる。元々の起源が戦勝祈願の占いであるため、その呼称がある。行事所役(ぎょうじしょやく)とも呼ばれるようである。   
   軍士による裸の儀式は、前段と後段に分かれる。前段は、ダンスをしているようなしぐさから、蹲踞(そんきょ)の姿勢に移行し、腰を叩く。これを三度繰り返す。後段は、腰を叩く代わりにお互いに手のひらを見せ合う。これも三度繰り返す。手のひらを見せて占うことから占手神事(うらてのしんじ)と呼ばれるようになった。  
   最後に、二人の軍士が互いの両手を掴み、とっ組み合ってから地面を叩く。 この取っ組み合いが相撲を取っているように見えることから、占手相撲とも呼ばれるようになった。 その後軍使は神門前に並び、神に向かって「オー!」という鬨(とき)の声を上げる。これで占手神事が完結する。  
   軍士の締める純白の褌は、時代により変遷があり、以前は生糸で織られた羽二重(はぶたえ)の褌を締めていたというが、現在は晒木綿である。internetの文献では殆どが羽二重の褌とされているが、宮司によると、篝火(かがりび)のもとではそのような光沢があるように見えるという。  
   軍士の褌は、前垂れ式六尺褌であるが、後ろが兵児帯(へこおび)の蝶々結びのように垂れている。宮司によると、昭和初期の写真では相撲まわしのような締め方だという。この独特の締め方は、占手神事保存会が考証して実践しているとのこと。  

 
2004年9月29日(水)雨
   

■■■  褌の切手 ■■■

   9月22日、タイにお住いの宮嶋さんから「今日は宮島玉取祭を拝見させていただきました。宮島は字こそ違いますが、私の姓と同じ発音ですので親しみが持てます。前垂れ式の赤褌なんですね。私の子供の頃の海水浴では前垂れ式もありましたが、ほとんどが前袋式の赤褌や晒の六尺褌でしたので懐かしく拝見させていただきました。」というお便りをいただき、そのあと褌談義に発展した。  
 

赤褌の青年/タイ

 

水褌の少年/日本

赤褌の青年/タイ   水褌の少年/日本

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   その中で、タイに褌の切手があるという話があり、その実物が今日届いた。この切手は、1996年の International Letter Writing Week の記念切手で、赤褌の青年が彼女と春を謳歌しているところである。既に売り切れているそうで、貴重なものをお送り頂いた。  
   日本にも褌の切手がある。実物は使ってしまったので、画像をお送りしたのだが、童謡「われは海の子」を記念した切手で、浜辺の少年がヤスとしとめた魚を持ち、一眼(いちがん)と呼ばれる水中眼鏡に白の水褌(すいこん 前袋式六尺褌)を締めている姿である。戦後しばらくは、地方の浜辺ではこのような風景が普通で、熟年の世代にとっては郷愁をそそる姿である。  

2004年9月25日(土)晴  大原や浜の神輿は宙に舞ふ
   

■■■  日本のはだか祭り第22集 「大原はだか祭り」をアップ ■■■

 

太陽を掴んだ神輿!

太陽を掴んだ神輿!

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   先ほど、日本のはだか祭り第22集「大原はだか祭り(速報版)」をアップした。この作品は、9月23日(木)秋分の日に外房の千葉県・大原町で開かれたはだか祭りの様子を撮影した速報版である。
   東京駅からJR外房線大原駅まで、特急ビューわかしお号で70分。駅から大原漁港まで徒歩20分余りで着く。
   大原はだか祭りは、江戸時代から行われ、天保年間(1829〜)から祭りのしきたりや組織ができたという伝統ある祭りで、毎年9月23・24日の2日間にわたって行われる。
   上半身裸の男たちによって大原地区の十社に東海・浪花の両地区から参集した合計18社の連合神輿が一斉に外房の太平洋に担ぎ込まれ、揉み合う「汐ふみ」が祭りのハイライト。勇ましく、雄々しく、神輿が海の中を駆け巡り、投げ上げられる様は感動的である。
   大原はだか祭り最大の見せ場が、大原海水浴場で行われる「汐ふみ」と呼ばれる海中渡御である。太平洋の怒濤の中で、参加18社の連合神輿が勇壮に揉み合い練り合う禊ぎが行われる。神輿は高々と持ち上げられ、空に向かって投げ上げられる。長くしなりのある舁き棒とともに宙に舞う神輿は圧巻である。
 
 

 
   これほど大規模で、しかも怒濤逆巻く太平洋の荒波に繰り出す勇壮な祭りは他に例を見ない。厳しい海に働く男たちの真骨頂に心から感動した。惜しむらくは、はだか祭りといいながら、胸から上しか露出しておらず、また、股引の下は柄パンが多く、海水に浸かると透けて見えるのがみっともない。江戸時代は全裸か褌一丁のはだか祭りであったに違いなく、明治の文明開化のせいなのか、祭り衣装に変質が見られるのは誠に惜しいことである。  

 
2004年9月22日(水)晴  やはらかき木漏れ日のもと曼珠沙華
   

■■■  日本の花第11集 「巾着田の曼珠沙華」をアップ ■■■

 

曼珠沙華の林

曼珠沙華の林

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   先ほど、旅紀行日本の花第11集「巾着田の曼珠沙華」をアップした。この作品は、9月19日(日)埼玉県日高市の高麗(こま)の里に咲く日本一といわれる100万本の曼珠沙華を撮影したものである。
   西武池袋線池袋駅から西武秩父(ちちぶ)線高麗(こま)駅まで特急で45分。そこから歩いて15分ほどで巾着田に着く。
   このあたりは約1200年ほど前に高句麗(こうくり)から渡って来た人々が住みつき、大陸文化を取り入れた高度な生活を営んでいた場所で、高麗の里と呼ばれている。
   当時、水田を作ることは大変な事業であったが、高句麗人は高麗川(こまがわ)が蛇行していることを巧みに利用し、川をせき止め、その内側に水を導いて水田とした。
 
   近くの日和田山(ひわだやま)から眺めると、高麗川に囲こまれた水田が巾着のように見えるので、川原田(かわはらだ)と呼ばれるこの地は、昔から巾着田と呼ばれてきたという。巾着田は広さが16.7haあり、高麗川に沿って長さ1.5kmの堤防が築かれ、総延長2kmの散策路がある。 昔は全て水田だったが、現在では一部を残して休耕田(きゅうこうでん)となっており、日本一の曼珠沙華の群生地として知られるようになってからは、コスモス畑のほか、ふれあい広場やグラウンド、牧場、駐車場などに利用されている。  
   巾着田の南部から東部に至る高麗川沿いのニセアカシア林に入ると、100万本といわれる曼珠沙華が地面を覆い尽くしていた。息を呑むほどの光景で、赤い曼珠沙華の数の力に圧倒される。  
 

 
   高麗の里には、1200年もの昔、当時としては途方もなく遠い朝鮮半島からやってきた高句麗人が開墾し、川を利用して築きあげた豊かな美田があった。高句麗人のロマンに思いを馳せながら、曼珠沙華の美しさを知った感動の旅であった。  

2004年9月16日(金)晴  秋の池立ち枯れし木の影長し
   

■■■  旅紀行ジャパン・第28集 「霧の上高地」をアップ ■■■

 

幻想的な大正池の佇まい

幻想的な大正池の佇まい

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   さきほど旅紀行ジャパン/第28集「 霧の上高地」をアップした。この作品は、9月10日(金)東京・立川から日帰りバスツアーに参加したときのものであるが、東京から日帰りで行けるから驚きである。
   紅葉にはまだ間があったが、ラッシュを避けたかったのでこの日を選んだ。生憎の曇り空で、穂高連峰や焼岳は見えなかったが、身近な上高地の自然を満喫することができた。
   車内で弁当を食べたあと、昼前、大正池で下車し、梓川に沿って河童橋まで3時間の散策を楽しんだ。帰りのバスは、河童橋西方徒歩5分の上高地バスターミナルで待機しているので、片道の散策である。
   平坦な道で、お年寄りでも大丈夫なように、難所には木道(もくどう)が整備されていて、安心して歩ける。マガモやオシドリ、ニホンザルにヤマメと、沢山の野生動物と出会った。お陰でひと味違った作品となった。

 中部山岳国立公園にある上高地は、長野県北西部、南安曇郡(みなみあずみぐん)安曇村(あずみむら)にあり、特別名勝、特別天然記念物に指定された景勝地である。穂高連峰(ほたかれんぽう)や焼岳(やけだけ)、霞沢岳(かすみさわだけ)に囲まれ、槍ヶ岳(やりがたけ)を源流とする梓川(あずさがわ)に沿って標高1,500m、長さ16km、幅500mほどの細長い盆地が続く。
 駐車場が少なく道路事情が悪いことから、マイカーは周年釜トンネルから先は入域できず、上高地には徒歩かバス・タクシーで入ることになる。また、冬季は雪崩の恐れがあるため、11月中旬から4月下旬まで、釜トンネルから先は通行止めになる。一般の観光は、南西端の大正池から田代池、田代橋、上高地帝国ホテル、上高地バスターミナル、河童橋、小梨平(こなしだいら)を経て北東端の明神池(みょうじんいけ)に至るエリアが中心で、大正池から明神池まで歩いて片道3時間の距離である。
 
 上高地は周年マイカーが規制されているので、マイカー客は沢渡(さわんど)に車を置き、片道2,000円のシャトルバスを利用することになる。 東京からの日帰りバスツアーは、昼食付きで4,000〜8,000円なので、沢渡から往復4,000円のバス代は高すぎるとTD(ツアーディレクター 添乗員)がいっていた。
 それでも行楽シーズンのラッシュ時には、河童橋を渡れない事態が生じるという。現在、釜トンネルをもう一本掘っている最中で、完成すると渋滞が緩和される。 全国から乗り入れてくる大型バスには福音かも知れないが、河童橋も、もう一本架けることになるのだろうか・・・。
 野生動物に餌をやらないようにという表示があっても、大正池で弁当を広げると鴨が寄ってくる悲しい現実がある。餌付けも立派な自然破壊である。一旦大自然の中に入れば最低限のマナーは守りたいものである。
 

2004年9月6日(月)  夏夕日赤壁の槍天を突く
   

■■■  「夏の北アルプス縦走」アップ ■■■

   先ほど、感動写真集第35集「夏の北アルプス縦走」をアップした。この作品は、8月11日(水)から3泊4日の日程で、北アルプス(飛騨山脈)を縦走された青木憲一さんの貴重な記録写真を編集したものである。 台風一過、素晴らしい晴天に恵まれ、これまでに見たこともないような素晴らしい山岳写真に、編集している私も感動の連続であった。  
 

 
 

解説文抜粋

 
   中部地方の飛騨(ひだ)山脈、木曾(きそ)山脈、赤石(あかいし)山脈を合わせて日本アルプスと呼び、飛騨山脈を北アルプス、木曽山脈を中央アルプス、赤石山脈を南アルプスと呼ぶ。北アルプスは、日本アルプスの主部で、日本海沿岸の親不知(おやしらず)付近から急激に高度を増し、新潟、富山、長野、岐阜の4県にまたがって続く大山脈である。南北の延長約70km、東西の幅約25kmで、標高は奥穂高岳の3,190mを最高に3,000m級の峰が並ぶ。昭和9年(1934)、中部山岳国立公園に指定された。  
   アルピニスト憧れの槍ヶ岳に初めて登頂したのは、江戸末期の山岳修行僧・播隆上人(ばんりゅうしょうにん 1786-1840)で、ウインパーのマッターホルン初登頂より37年も前の文政11年(1828)の夏だったという。その後、槍ヶ岳に登った英国人ガウランドが山頂からの景観を「ジャパニーズ・アルプス」と命名。この名称は、やがて明治25年(1892)に登頂した英国人ウエストンによって世界に広められ、Mt. YARI の存在が世界の登山家に知られるようになった。   
 

槍ヶ岳の勇姿

槍ヶ岳の勇姿

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   険しい岩場を登り、最後は金属製の梯子を上がれば山頂に着く。槍ヶ岳は、特別の装備がなくても登れるので、人気が高い。無事に標高3,180mの頂上に立ったのは、2004年8月12日午前11時45分だった。気分最高!!  
 

 
   南光さんからはじまる感動写真集の第15番目の作者となった青木さんは、「私の撮りたい写真は、南光さんの写真そのものです。」とのこと。これからの活躍が楽しみな新人である。どうかごゆるりとご覧いただきたい。  

2004年9月2日(木)  噴煙も夏雲のごと浅間山
   

■■■  「宮島玉取祭」アップ ■■■

   先ほど、感動写真集第34集「宮島玉取祭」をアップした。この作品は、8月21日(土)安芸の宮島で行われた厳島神社の玉取祭の模様をちばあきおさんが撮影されたもので、祭りの感動を追い求めておられるちばさんの第4作である。  
 

 
   玉取祭は、毎年大潮のときに広島県佐伯郡宮島町に鎮座する厳島神社(いつくしまじんじゃ)で行われる神事で、裸の男たちが大鳥居の前の海中に据えられた櫓(やぐら)に吊された宝珠(ほうじゅ)を奪い合う豪壮な祭りである。  
    厳島では、約400年前の戦国時代から旧歴7月14日の夜、本社拝殿に5尺(約1.5m)四方の台をつくり、その中央に恵比寿・大黒の福神像をすえて延年行事を行ない、行事がすんで台がおろされると、待ち構えていた褌一丁の男たちにより、福神像の激しい争奪戦が演じられたという。  
   この延年祭(えんねんさい)は、明治維新後の神仏分離政策により廃止されたが、明治初期に玉取祭として復活した。宝珠の落し主、取り主には年男として今年1年の幸運が約束される。  
 

宮島玉取祭

宮島玉取祭

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   安芸の宮島(厳島)は、丹後(たんご 京都府)の天橋立(あまのはしだて)と陸前(りくぜん 宮城県)の松島とともに、日本で並び称される三大景勝地で、広辞苑にも日本三景として記載されている。  
   平成8年(1996)12月、厳島神社の本社社殿、拝殿、幣殿など17棟、その周辺にある大鳥居、五重塔、多宝塔など国宝6棟、国重要文化財11棟・3基を擁する建築群と、それと一体となった前面の海、背後の弥山(みせん)原始林を含む森林地域がUNESCOの世界遺産に登録された。  
   鎌倉時代から宮島全体が神社地として保護され、農耕が禁じられてきたことから、当時のままの姿が残されている。 潮の干満を利用した神社の設計は国際的にも例がなく、建造物と自然との融合が高く評価されたという。  
 

 争奪戦の末、首尾よく宝珠獲得の名誉をつかんだ年男たちに、賞品が授与された。櫓から宝珠を海に投げ入れた落し主は、岡山県牛窓町の会社員・山下裕史さん(24歳)。宝珠を注進所に納めた取り主は、宮島町の会社役員・佐々木雄三さん(49歳)。

 
 

 
   この玉取祭は、伝統の祭り装束に統一されておらず、海水パンツ姿の参加者が大勢いて、祭りの品位が損なわれており、世界文化遺産に指定された厳島神社の神事とはとても思えない。本来なら没にしたいくらいだが、パンツ姿を極力カットすることで作品の品位を高め、何とか完成した。この作品を見て祭り見物に行かれることは自由だが、実際の玉取祭は、地域住民の娯楽のような雰囲気なので、呉々も失望しないように願いたい。  

2004年8月31日(火)晴  幽谷の岩陰ひとつ薄雪草
   

■■■  (祝)アクセス50万件! ■■■

   2004年8月31日というきりの良い日の午後9時15分、開設から4年と1.5ヵ月でアクセス50万件を達成した。ここ3ヵ月間、10日で1万件、月3万件のアクセスをいただいた。スタート時は、1万アクセスをいただくのに11ヵ月かかったことを考えると、夢のようである。  
   思えば、南光さんをはじめとする感動写真集や丹下さんの作品など、魅力溢れる作品群が私の力不足をカバーしていただいており、これまでに14人の方々のお力をいただいている。50万という数字は多くの創る人と見る人のお力添えの賜であり、心から感謝申し上げたい。  
   私一人のサイトだと、これほどの人気はなかったと思う。多くのゲストの方々は、和田個人の写真を見たいのではなく、感動する写真をみたくてWa☆Daフォトギャラリーに訪ねてこられるのである。今後ともこのことを肝に銘じ、更に創意工夫して、次の100万件を目指したいと思う。現在のペースの月3万件だと100万件は後1年5ヵ月かかるが、1年で達成できるよう、これからも努力したい。  

2004年8月28日(土)
   

■■■  「雨季のヒマラヤ点描」アップ ■■■

   先ほど、インド通信特別編「雨季のヒマラヤ点描」をアップした。この作品は、インドにお住いの丹下誠司さんが今年の8月上旬にインド・ヒマラヤを旅行されたときに撮影された貴重な記録である。  
 

 
 

作品の解説

 
   2004年8月初めに、首都デリーの北、いわゆる北部インドを旅する機会がありまして、北から南へと、ジャムー&カシミール州、ヒマーチャルプラデッシュ州、パンジャブ州、ハルヤナ州の4州を、ジープで、廻って来ました。緯度的には、福岡から奄美大島辺りまでに相当します。5日間で、山道を1300キロの行程でした。  
   ヒマラヤ山脈も東西に約3000キロと長く、ここで、私のご紹介するヒマラヤは、ヒマラヤの西のほうで、周りには3〜4000m級の山が林立する、まだまだ西部ヒマラヤの入り口、山麓辺りと言った光景です。さらに、200キロも北上すれば、5000m級の山が並び始め、さらに200キロも北上すれば、さらに山がそびえ立って、登山で名高いK2(8611m)などがあります。  
   インド・ヒマラヤの雨季は、ベンガルの雨季と同じ6〜10月で、行ったときは雨季の真っ盛りで、数十箇所の崖崩れや土石流の自然災害跡を横目で見ながら、走りましたので、胆っ玉はもう完全に縮こまりながら、シャッターを押しました。撮影日だけは、天候には恵まれていますが、移動日は、崖崩れの復旧で、3時間通行ストップなど、もう前に進めただけ、幸せでした。  
 

雨の中を歩く浮浪児の姉弟

裸足で雨の中を歩く浮浪児の姉弟

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   今回、主に撮影をしたのは、ヒマーチャルプラデッシュ州で、この州は、デリーの北400キロに位置します。豊富な水を資源に、水力発電が非常に盛んで、山地がほとんどの州ですが、インドの中では、この水力発電収入を元に、経済的にも非常に豊かな州として、5指に入るほどです。教育度も非常に高い州で、識字率も約7割と、インドでは5番目の高さです。  
   ヒマーチャルプラデッシュ州という名前は、日本の方には、余り馴染みがないと思いますが、東のチベットと国境を接した州であり、ノーベル平和賞のダライラマ14世が、中国の迫害を逃れて、十数万人のチベット人と共に、1959年から亡命政権を維持しているダラムサラという街がある州と言えば、日本の方にも、ご理解いただけるのではないかと思います。  
   人種的にも、アーリア系の白いインド人も居れば、茶色のベンガル人、ターバン巻いたパンジャブ人、あるいは、日本人と似た顔のチベット人、ネパール人もおり、インドの人種の坩堝(るつぼ)という感じでした。(なお、現在、チベットは、中華人民共和国チベット自治区と呼ばれています。)  
 

 
    山岳写真とかではありませんので、表題で、期待を抱かせて、がっかりした方が居られたら、ごめんなさいです。 あくまで、仕事の移動の中で、撮影したもので、私のテーマの「その土地で、生活する人々」を写した地味な画像が多いですが、土建屋稼業でないとこうした奥地にはなかなか入らないと思います。  
   このたび、雨季のヒマラヤ入りを、面白がって下さった和田さんが、 Wa☆Daフォトギャラリー への掲載も検討して下さるとのことで、撮影した側としては、余りに、地味過ぎて、和田ワールドに、そぐわないのではとの不安もなかったわけではありませんが、まあ、今の生のインドということで、皆さんから、返って来る反応は反応として覚悟しつつ、何枚かを選んで、恐る恐る送らせて頂きました。  

2004年8月25日(水)曇  翠巒(すいらん)の虞美人草や空の青
   

■■■  「大姑娘山の花園」アップ ■■■

   今朝深夜、数度の推敲ののち感動写真集第33集「大姑娘山の花園」をアップした。この作品は、平成16年(2004)7月23日(金)から8月1日(日)までの10日間、山岳写真家 ・南光優さんが奥様と共にヒマラヤ東端の中国四川省に聳える標高5,025mの大姑娘山(タークーニャン シャン)に登頂されたときの貴重な記録ある。  
 

解説文より抜粋

 
   大姑娘山(タークーニャン)は、中国四川省の省都・成都(チェンドゥ)から北西200kmのアパ・チベット族自治州にある四姑娘連山(スークーニャン シャン)の端に位置する。 登頂には、アイゼンやピッケルなどの装備や特殊な技術を必要としないが、キャンプ地を標高の高い位置に移して登頂する方法をとるので、遠征隊のような気分が味わえる。  
   この時期、山麓にはブルーポピーやエーデルワイスなどの高山植物が咲き乱れ、大自然の壮大な花園が広がる。 世界で一番美しい花といわれるブルーポピーは、標高3,000m〜5,000mのヒマラヤの高山にしか自生しないという幻の花で、1913年に英国の探検家ベイリーとウォードによりチベットで発見された。  
 

青い虞美人草(ブルーポピー)

青い虞美人草(ブルーポピー)

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薄雪草(エーデルワイス)

 

球状共生の勿忘草?

薄雪草(エーデルワイス)   球状共生の勿忘草?

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   標高4,300mの巴朗山(パーローシャン)峠を越えて登山基地の日隆(リーロン)までの道中、初めてブルーポピーを見つけた。英語でポピーと呼ばれる花はヒナゲシ(雛芥子、雛罌粟)のことで、ケシ科の一年草である。阿片(アヘン)が採れない種類なので自由に栽培でき、観賞用として花壇や鉢植え、切花として親しまれている。 阿片が採れるケシよりは丈が低く、幾らか分枝しており、全体に粗毛がある。  
   夏目漱石の小説で知られる虞美人草は、ヒナゲシの漢名である。本来は赤い花で、中国では秦代の実力者・項羽(こうう)の愛妾であった虞美人(ユメイレン)が流した血から生まれたという伝説から、この名があるという。  
 
 
   ウスユキソウ(薄雪草)は、夏に白く美しい花を咲かせるヨーロッパ・アルプス産のキク科の一種。ウスユキソウの仲間をエーデルワイスと呼ぶ。高山植物として有名で、人の近づかない万年雪の岩の裂け目に野生するため、登山家たちのあこがれの花となった。高度を上げて行くにしたがってスイスの高山で撮ったエーデルワイスとそっくりな綿毛のふっくらとしたエーデルワイスが見られるようになった。   
 
 
   下山時、登ってきた道や撮りたかった花の写真を思う存分に撮影した。中でも、苔状の葉(名はエリトリキュウムというらしい)の上に咲く美しいブルーやピンクの花は、現地ガイドによるとワスレナグサ (勿忘草)の一種で共生して咲いているという。全体が一つの花なのか、個々の花が共生して咲いているのか定かでないが、天地創造の神が長い年月をかけて創り上げたとしか思えない美しい色のハーモニー、存在感に圧倒される。  
 

 
   日程10日の内、山歩きは4泊(テント)5日。登山基地の日隆に至るまでも花、花。山に入っても更に花、花で、高度を上げるに従い種類も変化していき、飽きることのないフラワー・トレッキングとなった。
 登れるかどうか不安だった大姑娘山の頂に立てた時は気持ちが高ぶり、暫くしてから「ヤッター!」という喜びがこみ上げてきた。 キャンプに着いて、我々のグループより先行していたかなりベテランの6人パーティのうち二人が高山病で登頂できなかった話を聞いて、われらリーダーへの信頼感が一層高まり、更に満足感が高まった次第。まさにリーダーに感謝のツアーであった。
 

2004年8月20日(金)晴  白糸 や滝の飛沫の中に居る
   

■■■  「軽井沢の夏」アップ ■■■

   昨日、旅紀行ジャパン第27集「軽井沢の夏」をアップした。  
   軽井沢は、明治19年(1886年)イギリスの宣教師 A. C.ショーが、旧軽井沢(中山道・軽井沢宿)の民家を借りて一夏を送ったことから避暑の歴史が始まった。明治26年(1893)信越本線が全通してからはホテルもできて避暑客が増え、大正6年(1917)に西武資本による建売別荘分譲が始められてから本格的な避暑地になった。  
   昭和10年(1935)代までは旧軽井沢を中心にした外人別荘地として知られ、日本人では政財界人や文人などに限られた高級別荘地であった。第2次世界大戦後、中軽井沢(沓掛宿くつかけじゅく)、西軽井沢(御代田町みよたまち)、信越本線南側の南軽井沢と開発が進み、1万戸をこえる別荘が作られ、ホテル、旅館、民宿も多い国際的避暑地に発展した。  
 

白糸の滝

白糸の滝

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   夏には別荘客のほかテニスやゴルフなどのスポーツ、さらに軽井沢宿あとにひらけた旧軽銀座へのショッピングに訪れる観光客が多く、冬にはスケート客(軽井沢スケートセンター)、スキー客(人工スキー場)でにぎわう。  
   平成7年(1995)には上信越自動車道碓氷(うすい)軽井沢インターチェンジが開設し、平成9年(1997)10月には長野新幹線が開通して関東圏からのアクセスが便利になり、JR軽井沢駅南口に隣接する大規模なアウトレットができてからは、ショッピング客も多く、軽井沢は年間800万人が訪れるポピュラーなリゾート地に変貌した。  
 

 
   軽井沢は、JR軽井沢駅周辺や旧軽井沢、新軽井沢などの目抜き通りを外れると、あとは森そのものであり、ホテルやペンション、民家や別荘などは、鬱蒼と茂った木々の中にある。今回、自転車とバスを利用して、緑と清水の町・軽井沢を探訪した。  
   この時期、車で行くのは最悪である。首都圏から乗り込んできた車が碓氷峠(うすいとうげ)から珠数繋ぎとなり、軽井沢は都会並みの渋滞で、路線バスが1〜2時間遅れるのは当たり前の状況であった。文明の利器からしばし離れ、自転車や徒歩で大自然の中に入り、森林浴に徹するのが、夏の軽井沢を満喫する最良の方法である。  

2004年8月17日(火)曇のち雨  波を追ふ波の間に間の海月かな 
   

■■■  日帰りで行く関東の祭り」に写真掲載! ■■■

● 2004年6月14日、かんき出版から杉岡幸徳(すぎおか こうとく)さんの「日帰りで行く関東の祭り」が出版され、過日、杉岡さんから一冊献本いただいた。この本には、私の写真5枚が掲載されている。  杉岡幸徳のページ

 

表 紙

表紙

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● 2004年4月6日、杉岡さんから次のメールをいただいた。

初めまして。私は、祭り関係の執筆活動をしている杉岡幸徳という者です。今回は四街道市役所の仲田さまからご紹介を受けて、メールさせていただきました。

私は今、かんき出版より六月に発刊される『日帰りで行く関東の祭り』という本の執筆の最中なのですが、関東のいろいろなお祭りの写真を探しているのです。
四街道市役所の仲田さまに「和良比はだか祭り」の写真をお貸しいただくようお願いしました。仲田さまは快くお貸し下さったのですが、和田様というすばらしいカメラマンがいらっしゃるので、和田様にお願いしたらどうかというご提案を受けました。
さっそくホームページを拝見いたしました。「鞍馬の火祭」などの写真で、和田様のホームページは以前から拝見したことがありました。やはり素晴らしい、男や人間の息づかいや生身の身体がリアルに伝わってくる写真ですよね。人間が動いています。
そこで、まことに勝手ながら、お願いがあるのです。和田様のお写真を、出版物に使用させていただけないでしょうか。和良比はだか祭り、火渡り祭り、三社祭りの三つです。これらはなかなか良い写真がなく、写真そのものが少ないので、私としても非常に困っているのです。ぜひともよろしくお願いいたします。ご不明の点はなんなりとお問い合わせくださいませ。失礼いたします。
 
  ● 私は、直ぐに返事を送った。  
  今晩は。はじめまして。お便り有り難うございます。四街道市には、どろんこ祭りが素晴らしかったので、作品が完成したときにお便りを差し上げていました。思いがけないところからご推薦いただき、光栄です。杉岡様の新しい著作に私の写真をお使い頂けるとは、本当に光栄に思います。どうぞお使い下さい。  
  ● このようなやりとりの結果、三社祭2枚、和良比のはだか祭り1枚、火渡り祭り2枚の写真が杉岡さんの「日帰りで行く関東の祭り」に掲載された。この本は、縦21cm横15cm・175ページの単行本で、関東を中心に定価1200円で販売されている。  
   内容は、「神輿・山車がすごい祭り!」「勇壮・豪快な祭り!」「ロマンチックな祭り!」「歌って踊れる祭り!」「爆笑!珍祭・奇祭」の五章に分けられ、関東近辺の合計67の祭りが紹介されている。掲載された写真は白黒で印刷され、そのそばに「撮影 和田義男」のキャプションが入っている。  
 

三社祭

 

三社祭

三社祭 1   三社祭 2

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和良比のはだか祭りのページ

 

和良比のはだか祭り

和良比のはだか祭りのページ   和良比のはだか祭り

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火渡り祭り

 

火渡り祭り

火渡り祭り 2   火渡り祭り 1

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  ● 2004年2月25日に四街道市で行われた「和良比はだか祭り」をテーマにした作品が完成したとき、私は四街道市に次のメールを送った。  
  四街道市 様 素晴らしかった「和良比はだか祭り」 初めまして。趣味でWa☆Daフォトギャラリーを主催していますアマチュア写真家の和田と申します。先日、標記の裸祭りを取材し、このほどその作品を「和良比はだか祭り」というタイトルでinternetに発表しました。
和良比はだか祭り 
maturi/wara1.htm 
 
  私は四街道市と四街道警察署の記事を読み、この祭りを見に行くことにしました。高橋市長様はじめ地元の皆様の並々ならぬご努力のお陰で、この伝統文化が現代に継承されていることに深い感銘を覚えました。全国的にも珍しい素晴らしい祭りだと思います。  
  これからも変質することなく、この歴史的伝統的文化が存続することを祈念しています。四街道市の職員の皆様、四街道警察署の皆様、地元の皆様、本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。  
 
 
  和田 様 この度は遠方より「和良比はだか祭り」をご観覧していただきありがとうございました。私を含め秘書広報課の職員も、早速和田様のホームページを拝見いたしましたが、日本は言うに及ばず、諸外国の名所・旧跡などを多く撮影されていること驚き、そして「和良比はだか祭り」の写真だけでなくその他の写真についても言える事ですが、構図や撮影方法が素晴らしく臨場感に富み、カメラのスペックだけでは補いきれない和田様の写真に対する情熱をうかがうことができました。おそらく和田様のホームページを見られた方であれば、驚きと共に非常に感動されることと思います。  
  私どもが撮影した和良比はだか祭りの写真と和田様の写真を見比べましたが、あまりの違いの大きさに何とも情けない気分になりましたが、めげていても解決しないので、和田様の撮影された写真を参考にし、市民の皆様に感動を与えられるような写真撮影を心がけていきたいと存じます。  
  和田様におかれましては、人に感動を与える写真を撮影していただけることを期待しております。市といたしましても、和田様をはじめとして多くの皆様が来年も「和良比はだか祭り」にお越しいただけるよう、努めて参りたいと存じます。 お体には十分注意してお過ごし下さい。  四街道市総合政策部秘書広報課  
 
 
  四街道市秘書広報課 様  こんにちは。ご丁寧なご返事を賜り、恐縮です。嬉しく拝読させて頂きました。もし、私の撮影した和良比はだか祭りの写真が貴市のホームページやポスター、パンフレットなどでお役に立てることがありましたら、お知らせ下さい。「撮影:和田義男」というキャプションさえどこかに表示していただければ、ご自由にお使い頂いて結構です。  
  必要なら500万画素の原画をお送りしますので、半紙程度まで写真画質で印刷できます。以前神戸市に単身赴任していましたが、そのとき神戸祭りのポスターに写真を提供させて頂きました。社会貢献できればといつも思っておりますので、どうかご遠慮なくお申し付け下さい。有り難うございました。  
  ● このことが縁となり、このたび四街道市の仲田様に私のホームページを紹介していただき、私の写真が杉岡さんの本に掲載された。四街道市の皆様には、重ね重ね大変お世話頂き、心から御礼申し上げます。  

2004年8月13日(金)晴  軽井沢せせらぎの音青葉風 
   

■■■  軽井沢の夏」速報! ■■■

   今週、真夏日の連続記録を更新中の暑い東京から脱出し、家内と二人で軽井沢に行ってきた。長野県東部、北佐久郡にある町・軽井沢は、地元では「かるいさわ」という。人口1万5千余。浅間山南東麓にある標高約1,000mの高原で、8月の平均気温が20.5℃と札幌より1.2℃ほど低く、東京駅からJR長野新幹線で80分という地理的条件から、夏の全盛期の入込客は常住人口の10倍にのぼるという。  
 

白糸の滝

白糸の滝

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軽井沢のスワンレイク・雲場池

 

雲場池のカルガモ

軽井沢のスワンレイク・雲場池   雲場池のカルガモ

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軽井沢の緑陰

 

御膳水

軽井沢の緑陰   御膳水

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白糸の滝の女

 

矢ヶ崎川

白糸の滝の女   矢ヶ崎川

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   軽井沢の一番人気は、自転車でノンビリと杜の小径を走ること。1,500円で丸一日乗り放題のレンタサイクルは快適だった。夫婦二人で矢ヶ崎川(やがさきがわ)の「ささやきの小径」からはじまり、明治天皇が軽井沢に行幸されたときに炊飯とお茶に使われたという御膳水(ごぜんすい)や雲場池(くもばのいけ)など、暑さを忘れて緑と水の町を巡った。  
   軽井沢の北にある白糸の滝にはバスを利用し、25分ほどかかったが、何処に行っても風は爽やかで日蔭に入ると涼しく、山上の町、杜の中にある街をたっぷりと堪能した。後日、「軽井沢の夏」と題して、アップすることにしたい。  

2004年8月3日(火)晴  梵鐘のひとつ鳴りたる蓮の池 
   

■■■  ATOK 入力をサポートしない Microsoft ■■■

    Microsoft のホームページ作成ソフト FrontPage2003 にバグ(欠陥)があり、昨日から今日にかけて Microsoft のサポート窓口 03-5354-4500 に電話して、長時間にわたってやりとりをした結果、今夕、ATOK を使っているという理由で、私の指摘した欠陥を確認しようとせず、検討すらしないという回答を受け、サポートが打ち切られてしまった。その顛末をこゝに記したい。  
   サポート担当者に代わって応対に出た T という男性に対し、この誠意のない回答は Microsoft 社の回答と受け取って良いかと訊ねると結構だと答え、私の徒然日記にこの件を公表することを告げたところ、構わないと言ったので、こゝに紹介したい。  
 

 
 

FrontPage2003

FrontPage2003

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 私は、4年間一貫してフロントページ日本語版を使ってホームページを作成してきた。正確には今年の初めまで FrontPage2000 を使ってきた。これにもかなりバグがあり、例えば  Times New Roman というフォント属性の「FrontPage」という文字列を別の場所にコピーすると、その属性が標準フォントに変わってしまい、 「FrontPage」になってしまうのだ。仕方がないので、もう一度フォントの指定をしようとすると、このデザイン画面(ワープロライクに入力できる画面)では受け付けなくなっているので、コード画面でフォント指定のコマンドを入力するという手間をかけていた。
 それでも我慢して使っていたのだが、数ヵ月前に、これらの不便を解消すべく FrontPage2003 にバージョンアップした。その結果、このフォント属性が消えるというバグはなくなっていたが、代わりにもっと深刻なバグがあったのである。

▲ 文字を追加すると半角スペースが入ってしまうバグ ▲

 今度は、文字を入力したあと、新たな文字を追加すると、その文字の冒頭に半角スペースが入ってしまうのだ。これは必ず起きるというわけではなく、起きたり起きなかったりする。どういう条件の時に起きるかは色々試したが分からなかった。三年以上も使ってきた FrontPage2000 ではこういうことは起こらなかったので、 FrontPage2003 の新たなバグである。
例 「貴社の記者が汽車で帰社した。」の「記者が」の後に「東海道線の」を追加する。
 
    FrontPage2000 (正常) 貴社の記者が東海道線の汽車で帰社した。  ←正常に文字が挿入されている。  
    FrontPage2003 (異常) 貴社の記者が 東海道線の汽車で帰社した。  ←「東海道線の」の前に半角スペースが挿入されている。  
   これが困るのは、バグが出るときと出ないときがあり、読み返しているうちに半角スペースがあちこちに入っていることに気付くと、いちいちそれを削除する手間がかかり、見落としてしまう箇所もままあり、文章を整えるだけの作業に労力をとられてしまい、大量に作文する私にとっては堪えられない苦痛であった。数ヵ月我慢して使っていたが、結局これでは使い物にならないと判断し、昨日、そのバグをサポート窓口に報告したのである。  
   あれこれ指示を受け、再現できるかどうかをチェックしたいというので、私のホームページのアドレスにtest1.htm test2.htm というファイルをアップし、バグが再現することを証拠として提示した。  
 

 
 

▲ ATOK 入力はサポートしない ▲

 
   これをもとに Microsoft のサポート窓口で色々とテストしたようだが、再現できないという。そこで私は、文字入力は日本語ワープロソフト・一太郎付属の ATOK15 (エイトック15)を使用しており、 そちらは Windows に付属する MS-IME( エムエス・アイエムイー Microsoft の日本語入力ソフト)と思われるので、文字入力を ATOK にしてみたら再現するのではないだろうかと提案した。  
   すると、それはできないという。ジャストシステムの一太郎は、日本国政府が採用し、多くの日本人が使用している定番のワープロソフトなのだが、その入力ツール ATOK による動作確認はまったくしていないし、これからもしないし、サポートもしないというのである。  
   初耳だったので、そのことは使用許諾契約書に明記されているのかと聞くと、明記していないという。それなのに、サポートしないと通告されたのである。Microsoft の日本法人が日本人向けに販売しているソフトなのに、ATOK で動くか動かないか、知ったことではないという態度に、私はしばし言葉が出なかった。  
   Microsoft  Windows は、色々なアプリケーション・ソフトが同時に動くOSではなかったのだろうか。もし、ソフトに機能制限があるのなら明示するのが当然であるし、ATOK で動くか動かないか分からないソフトと知っていれば、私のような ATOK ユーザーは購入しなかった筈である。  
   そして、ATOK に代えて MS-IME を使ってみて欲しいという。私は外国メーカーの日本語入力ソフトは使ったことがないし、これからも使うつもりはないので、できないと答えると、協力しないユーザーにはサポートしないという理由で、本件は一方的に打ち切られてしまった。  
   これは、ATOK が原因でこの不具合が発生するのかどうかまだ分かっていない段階での結論なので、承服しかねる。私なら「開発陣にフィードバックし、必要ならジャストシステム社と連携して原因を究明したい。」と回答するだろう。1ヵ月や半年かかろうが、私はそれでバグが取れれば満足なのである。 今やるべきことは、私ではなく、彼らがMS-IME に代えて ATOK でテストするなどして、バグの原因を特定し、対策を講じることではないのだろうか。  
 

▲ 所 感 ▲

 
   現在 Microsoft Word とジャストシステムの一太郎は、相互のファイルが利用できるようになっており、ユーザーフレンドリーな方向に進んでいると思っていたが、こと文字入力に関しては企業エゴが残っている。この分野でトップシェアを誇る IBM のホームページ・ビルダー8は、 ATOk15 で正常に動作するので、 Microsoft がこのような状態では IBM にシフトせざるを得ない。  
   本件のやりとりで分かったことは、Microsoft は何とかして MS-IME を使わせたいと思っていることである。アメリカや欧州などで独禁法違反で裁判沙汰になって久しい Microsoft  の強引な体質は日本でも健在である。 〈 完 〉  

2004年8月1日(日)晴      山笠を舁く赤銅色の赤手拭やまをかく しゃくどういろの あかてのご い
   

■■■  感動写真集・第32集 「博多祇園山笠」をアップ ■■■

   昨日、感動写真集・第32集「博多祇園山笠」をアップした。この作品は、岡山のちばあきおさんが今年7月上旬に福岡市で開催された博多祇園山笠を10日から13日まで泊まりがけで取材されたもので、福岡の大庭靖雄さんからも特別に写真を提供していただき、8ページ、82枚にのぼる超大作に仕上がった。 今回の作品はこれまでとは一線を画する作品となった。  
   ちばあきおさんが4日間福岡に泊まり込みで撮影された600万画素の写真は2,400枚3,440MBという途方もない量であった。送られてきたCD8枚を手にして、見るだけでも大変な分量なので、ちばさんが長期間にわたり舁き山を追って粘り強くシャッターを切り続けられたことは大変な労力であり、心から感謝申し上げたい。  
 

一番山笠・西流の〈 博多祝い唄 〉

一番山笠・西流の〈 博多祝い唄 〉

拡大写真(1600x1064)353KB 撮影:ちばあきおさん

 
   高温多湿の気候風土に育まれた日本の裸文化の華といえる裸祭り。2001年の秋、友人に勧められて兵庫県姫路市の灘のけんか祭りを見て以来、その魅力に惹かれ、日本全国の裸祭りを発掘してきた。博多祇園山笠はその頂点に立つ夏祭りで、いつか取材したいと思っていたが、このたび、ちばさんと大庭さんのお陰で、その魅力を余すところなく切り取った作品を完成することができた。  
   博多祇園山笠の凄さは、何といっても締め込みと呼ばれるふんどしの着用を徹底しているところにある。一人の例外もなく、水法被の裾を前で結び、下半身丸出しである。東京の神田祭や三社祭のように法被の裾や腹巻で尻を隠している人は一人もいない。女の子までが締め込み姿で街を闊歩している。  
   祭り期間中、祇園山笠振興会が締め込み姿の男性の臀部を拡大した写真ばかりを展示した「男の尻写真展」を三越で開催していたのも驚きである。おおらかな裸文化が息づく博多ならではの企画といえよう。  
   日本の伝統文化をみんなで守っていこうという意気込み。親から子へ、子から孫へと受け継がれて行く博多っ子の祭り文化にすっかり魅了された私は、これからもエールを送り続けたいと思っている。  

2004年7月20日(火)晴  益荒男 や山笠清道を駆け抜けりますらおや やませいどうを かけぬけり  
   

■■■  2004年「博多祇園山笠」速報! ■■■

   2004年7月1日から15日まで開催された博多祇園山笠の迫力ある画像が届いた。先ほど速報版をアップした。これらの画像は、7月10日から13日の間、岡山のちばあきおさんが博多に泊まり込んで撮られたものと、福岡在住の大庭靖雄さんが撮影されたものである。天候にも恵まれ、規模と内容において日本一といわれる博多っ子の夏祭りを見事に捕らえた力作である。後日、作品にまとめてアップする予定である。乞うご期待!(以下敬称略)  
 

疾走!/五番・大黒流

 

しぶきを上げて!/七番・中洲流

疾走!/五番・大黒流   しぶきを上げて!/七番・中洲流

拡大写真(1600x1064)231KB ちばあきお

 

拡大写真(1600x1270)271KB 大庭靖雄

追い込み!/八番・上川端通

 

神剣照天地/五番・大黒流

追い込み!/八番・上川端通   神剣照天地/五番・大黒流

拡大写真(1600x1064)304KB ちばあきお

 

拡大写真(1600x1064)293KB ちばあきお

雷風天下轟/四番・土井流

 

豪華な舁山/八番・上川端通

雷風天下轟/四番・土井流   豪華な舁山/八番・上川端通

拡大写真(1600x1064)363KB ちばあきお

 

拡大写真(1600x1064)346KB ちばあきお

 

2004年7月19日(日)晴  祝 海の日  夏の雲富士に向ひてパドリング
   

■■■  日本の裸祭り・第21集 「江の島天王祭」をアップ ■■■

   3連休を「江の島天王祭」の編集に当てた。海の日の今日、無事に作品が完成し、先ほどアップした。夏本番、暑い夏を乗り切るには、海に出て汗をかき、発散するのが一番だろう。 そう思いながら冷房の効いた部屋でパソコンに向かっているのは、自己矛盾かも・・・。(^^;  
   今思い出しても、撮影中はとにかく暑かった。帽子を被っているのに額の汗が眼が染み、眼鏡が滲んでよく見えないほどだったが、午前中の2時間、神輿を追って夢中で激写した。祭りとなると急に元気になるから不思議だ。気が付けばCD2枚分の写真を撮っていた。  
 

海から出る神輿

海から出る神輿

拡大写真(1600x1200)325KB

 
   いつもの和田流撮影法は、自動焦点・自動露出の連写・連写で撮りまくる方法である。私はレンズを選び、ズームリングを廻しアングルを決めてシャッターボタンを押し、黙々と画面を切り取って行く作業をするだけである。  
   「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」 で、プロ用のオリンパスE-1で大量に写せば、中にはプロ顔負けの写真も生まれる。それが私の作戦である。今回もその奥の手を使って、多くの感動的な海の裸の祭典を切り取ることができた。どうか大画面をダウンロードして、躍動する男たちとともに海の夏祭りを謳歌して頂きたい。  

2004年7月16日(金)晴  波の間に浮きつ沈みつ夏祓
   

■■■  開設4周年! ■■■

     
   西暦2000年7月16日晴れの日曜日、江戸時代に当たる1859年以来といわれた皆既の時間が107分間と極めて長い月食が観測されたこの日、たった12枚のフランスの写真をアップして始まったWa☆Daフォトギャラリーも、今日、満4歳を迎えた。4年間で453,095件のアクセスをいただき、5年目に入ったのである。現在、10日で1万アクセスをいただくまでになったことは感無量であり、当初、1万アクセスまで11ヵ月かかったことを思うと、夢のようである  
   この勢いでいけば、8月中には50万件の大台に達するのは確実で、この様な地味なサイトでは夢のような100万件もそんなに遠い未来のことではなさそうである。これも多くのリピーターの皆さんのお陰であり、心から感謝申し上げたい。  
   しかし、まだまだ通過点であり、現状に満足することなく、ロマンと感動を求めて、気力体力の続く限り、世界中を巡り、よりクオリティの高い作品を発表して行きたいと思う。初心を忘れず、知的好奇心と感性を研ぎ澄まし、創意工夫を凝らしながら、多くの同好の志とともに一歩一歩歩んで行きたい。その結果、ささやかな社会貢献ができれば、望外の喜びである。  

2004年7月11日(日)晴のち雨  群青の海に入りたる神輿かな
   

■■■  江ノ島天王祭速報! ■■■

   今日午前中晴天に恵まれ、江ノ島で八坂神社の天王祭が開かれた。午前9時半から江島神社辺津宮(えのしまじんじゃ・へつのみや)の境内で、宮司による祝詞奏上や祭り関係者の玉串奉奠などの式典が行われた後、狭い石段や参道を下り、江の島ヨットハーバーの北西にある公園の特設スロープから入水。30分ほどであったが、江の島大橋の東側海域で神輿の海中渡御が行われた。  
   周りはウインド・サーフィンや水上バイク、沖合はヨットが行き交うマリンレジャー華やかなるこの江の島の地で、いかにも日本的で古式ゆかしい伝統文化が披露され、その落差にとまどう人もいたに違いない。しかし、時代が移り変わっても、伝統を守って行きたいと思う人々も健在である。  
 

海に入る神輿

 

ウインド・サーフィンと神輿

海に入る神輿   ウインド・サーフィンと神輿

拡大写真(1600x1200)302KB

 

拡大写真(1600x1200)294KB

船上のお祓い

 

ダイビング!

船上のお祓い   ダイビング!

拡大写真(1600x1200)292KB

 

拡大写真(1600x1200)247KB

深みに入った神輿

 

塩抜きのシャワー

深みに入った神輿   塩抜きのシャワー

拡大写真(1600x1200)317KB

 

拡大写真(1600x1200)348KB

 
   今年の成人の日に対岸の片瀬海岸東浜で寒中神輿錬成会があり、カラフルな六尺褌の男たちが御輿を担いで海に入ったが、今回は八坂神社の祭神が鎮座する神輿の海中渡御という神事であり、白褌でないと神輿を担げないことになっている。  
   八坂神社は江島神社の末社であり、実質は、ストリップの弁財天で有名な江島神社の例大祭であるが、氏子島民だけでは神輿は出せず、 外人部隊ともいえる裸神輿ファンによってかろうじて存続している。「和良比の泥んこ祭り」で見かけた人もかなり来ており、「和田さんでしょう?」と声をかけられる一幕もあった。Wa☆Daフォトギャラリーの名が広まっているようで嬉しく思った。彼らは、公園の水飲み場で身体を洗った後、弁当を受け取って帰って行った。  
   私も水中渡御が目当てだったので、早々に引き揚げたが、午後1時前、戸塚駅付近で突如空が雷雲に覆われて暗くなり、雷鳴雷光とともに豪雨となり、夜まで降り続いた。午後からの祭りは、悲惨なものになったのではないかと思う。  

2004年7月10日(土)晴
   

■■■  感動写真集・第31集 「黄金の涅槃仏」をアップ ■■■

 

黄金の涅槃仏

黄金の涅槃仏
 さきほど感動写真集/第31集「黄金の涅槃仏」をアップした。タイにお住いの宮嶋茂さんの「タイの仏教文化」シリーズ「アユタヤの遺跡」「タイ仏教寺院ワットプラケオ」に次ぐ3作目に当たり、4頁にのぼる大作となった。
 タイでは黄金は不滅の輝きを表す聖なる色であるという。宮嶋さんは、この作品で、タイの仏教文化を余すところなく紹介されておられ、仏像だけでなく、仏舎利や出家式など他のサイトではとても見ることのできないコンテンツが盛りだくさんで、感動の力作となった。
 宮嶋さんの素晴らしい写真や正確で詳しい解説のお陰で、タイの仏教文化の真髄を知ることができることは、望外の喜びである。
 

2004年7月4日(日)晴  夏の海今に伝わる舟戦
   

■■■  感動写真集・第30集 「源平和船競争おしぐらんご」をアップ ■■■

 

源平和船競争おしぐらんご

源平和船競争おしぐらんご

拡大写真(800x409)130KB

 さきほど感動写真集・第30集 「源平和船競争おしぐらんご」をアップした。感動写真集に登場された13人目の大型新人ちばあきおさんの第二作である。
 2004年6月20日(日)、岡山県笠岡市で開かれた「おしぐらんご」は、源平合戦の舟いくさを起源とし、約800年前から伝わる伝統行事である。
 白幟(しろのぼり)の源氏と赤幟(あかのぼり)の平家の二手に分かれ、それぞれ紅白の幟を立てた四丁櫓の和船に各々紅白の褌を締めた裸形の男たちが乗り込み、海水を掛け合いながら速さを競う勇壮な祭りで、ちばさんはその様子を余すところなく撮し取ってこられ、4頁にわたる大作が完成した。
 おしぐらんごは、かつては漁師としての腕が問われ、勝てば大漁・豊作になるという作占いの意識も強く、激しい競争が展開されたという。 競技船にはその年の新造船が使用され、勝てば船主から椀飯振舞(おうばんぶるまい)を受けるので、喧嘩も珍しくなく、「喧嘩ぐらんご」の異名を持つ。喧嘩がエスカレートして、結局ゴールしないことも希ではなかった。
 
   漁業の近代化に伴い、和船の新造と漕ぎ手が減少したため、昭和35年(1960)に一旦中止されたが、地元有志が保存会を結成し、笠岡市など関係者の尽力により、昭和62年(1987)に復活した。最近は地元民だけではなく、外国人の参加もあり、国際色豊かな行事となっている。  
   この地方の方言で櫓(ろ)を「漕ぐ」ことを櫓を「押す」といい、競争すること「・・・くらべ」を「ぐらんご」ということから、「漕ぎくらべ」の意味の「おしくらべ」が方言で「おしぐらんご」になったという。  
   「おしぐらんご」が行われた金浦湾は、笠岡中心部の西側に位置し、喉仏のごとく入江の最奥部にある。かつてカブトガニの生息地だったこの場所は、周辺の干拓が進み、瀬戸内海とは遠く離れている。地域に根付く伝統的な祭りの継承が危ぶまれている昨今、この「おしぐらんご」が笠岡市の独自の伝統文化として、途絶えることなく代々受け継がれて、後世に残っていって欲しいものである。  
 

2004年(上)

2004年(下)

2005年1/5

 

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