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 旅紀行日本の祭り

2003年12月14日改訂

今 日

昨 日

祭囃子

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三ノ宮(平将門命)鳳輦(ほうれん)

2003年5月24日制作

三ノ宮(平将門命)の鳳輦神輿

神幸祭(東京・日本橋)

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広重の日本橋(朝之景)

広重の日本橋(朝之景)

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 幕末の様子は安藤広重の錦絵で知られる。橋詰には高札場があり、魚河岸(うおがし)があったという。
京都まで126里半の東海道五十三次の起点、橋の手前5〜6人の魚屋が早朝の魚市から買い求めた魚をかつぎ、橋の上を大名行列の先頭が渡ってくる。
あわただしい朝の日本橋の情景が描かれている。
歌川(安藤)広重 (1797〜1858)  広重は江戸で定火消同心の子として生まれ、13歳で家を継いだが、のちに家督を養子に譲り、画業に専念。
 はじめ、歌川豊広に入門し、美人画や役者絵を制作していたが、やがて風景画に取り組み、「東海道五十三次」「木曾海道六十九次」などを完成し、多くの叙情あふれる名所絵を残した。
日本橋

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日本橋

日本国道路元標
 にほんばし 東京都中央区の北部、日本橋川にかかる橋の名称であると共に、旧日本橋区にあたる地名。
 1603年(慶長8)日本橋が架けられて以来、付近一帯の地名となった。
 翌年、全国里程の原点と定められ、東海道をはじめとする五街道の起点となった。現在も日本国道路元標(昭和42年移設時の佐藤栄作総理の筆による)が橋のたもとにある。現在のアーチ型石橋は1911年に架けられたもので、長さ49m、幅27m、ルネサンス様式を模している。
 浅井了意《江戸名所記》に、人の行きかいは〈蟻の熊野まいりのごとし〉とあるように、江戸の交通・運輸の中心としてにぎわい、橋の南詰には高札場、晒(さらし)場が設けられた。日本橋川を軸にした運河、船入堀べりには魚河岸、米河岸、塩河岸、材木河岸などの河岸が並び、物資の集散に活況を呈した。
 これに伴って商工業が発達し、近江商人や伊勢商人などの大店が軒を連ね、呉服、木綿、薬種など各種の問屋が集まり、また金座、銀座がおかれた。明暦の大火(1657)以前は遊里吉原があり、近くの葺屋(ふきや)町、堺町には天保の改革まで芝居小屋の市村座、中村座があった。
 1878年、東京市の15区の一つとして日本橋区が成立し、その結果、従来は橋の周辺にのみ限定されていた〈日本橋〉の地名が拡大して使用されるようになった。この旧日本橋区に属する地域は、日本及び東京の経済・商業活動にとって重要な地域となっている。
 日本のウォール街といわれる兜町には東京証券取引所を中心に証券会社が、室町から本石町にかけては日本銀行をはじめ金融機関が集中し、中央通り沿いに三越、高島屋、東急日本橋店などの百貨店や大書店の丸善が並ぶ。
 江戸時代以来の伝統を受けつぎ、横山町、馬喰町(ばくろちょう)一帯に衣服・雑貨、小伝馬町、本町3〜4丁目一帯に繊維、本町1丁目付近に薬種などの問屋が集中している。地下鉄各線や総武線が通じ、東京駅八重洲口にも近い。
 なお大阪市中央区には道頓堀川に架かる日本橋(につぽんばし)があり、近世以来、付近の町名ともなっている。
 2003年5月10日(土)、神田祭(かんだまつり)の神幸祭(しんこうさい)に出かけた。今年は徳川家康が慶長8年(1603)に江戸幕府を開いてから丁度400年になる。

 JR東京駅の日本橋口(にほんばしぐち)から歩いて10分ほどで日本橋に着く。
 日本橋が初めて架けられたのは家康が幕府を開いた年だという。幕府は東海道をはじめ5街道の起点を日本橋と定めたので、重要な水路であった日本橋川に架かる日本橋は、江戸経済の中心となった。

麒 麟 

麒麟

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 現在の日本橋は、明治44年、当時の東京市により石造二連アーチの道路橋としてに完成した。橋銘(きょうめい)は15代将軍徳川慶喜の筆による。青銅の麒麟 きりん(国の重要文化財)は東京市の繁栄を表したものだという。

神幸祭

 日本橋を渡ると三越デパートが見えてくる。今年は開府400年と本祭(ほんまつり)が重なり、午後3時半になると、神幸祭(しんこうさい)の豪華な行列が神田神社を目指して出発した。

万燈山車(御鉾)

万燈山車(御鉾)

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江戸の天下祭

 江戸時代、本社の神輿を氏子総出で江戸城内まで担ぎ、氏子でもある将軍の上覧を得たことから、神田祭は天下祭(てんかまつり)・御用祭ともいわれた。

猿田彦

 各町が競う山車(だし)や練物(ねりもの 屋台や仮装行列)は華美を尽くし、本社の神輿を中心とした行列は数キロに及んだといわれる。
 しかし、行列を出す費用がかさむことから、天和元年(1681)、幕府の命により、神田祭と日枝(ひえ)神社の山王祭を隔年に行うようになった。
 天下祭の当番の年の祭りを本祭(ほんまつり)、当番でない年の祭りを陰祭(かげまつり)と呼ぶ。

三柱の神の鳳輦

 神幸祭は、神田神社に祀られる大黒様・恵比寿様・平将門命の三柱の神の鳳輦(ほうれん)による渡御祭である。

 鳳輦の鳳(ほう)は鳳凰(ほうおう)の雄(雌は凰)、輦(れん)は天子の乗り物で、鳳輦とは、屋形の上に雄の鳳凰をつけた輿(こし)のことで、神(御神体・御霊代)の乗り物である。
 神輿も神の乗り物であるが、鳳輦の方が高級感がある。見物客も「ほうれん」という言葉を頻繁に使っており、東京では普通の呼び方のようだ。
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一ノ宮鳳輦

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獅子頭

獅子頭

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 獅子頭(ししがしら)は破邪の霊獣として尊ばれる雌雄の獅子を山車(だし)に飾り付けたもので、行列を守護する役目を持つ。関東大震災で消失したものを昭和58年(1983)に復興した。

一ノ宮鳳輦

 一ノ宮鳳輦は神田神社の主祭神・大己貴命(おおなむちのみこと 大黒様)の本社神輿(ほんしゃみこし 神社が保有する神輿)である。鳳輦は神幸祭では台車に乗っている。

白馬の馬車の宮司

氏子総代らのお祓い

二ノ宮鳳輦

白馬の馬車の宮司

氏子総代らのお祓い

二ノ宮(少彦名命/恵比寿)鳳輦

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神田神社の大鳥居信史・宮司(ぐうじ)は、白馬の馬車に乗って会場に現れた。さすが天下一の祭といわれるだけのことはある。山本惠造・氏子総代らは、一ノ宮鳳輦に向かって手を合わせ、神幸祭と明日の神輿宮入の無事を祈願した。写真中央・和服姿の山本さんは日本橋室町で嘉永2年(1849)から続く山本海苔店の5代目だという。
その後、二ノ宮(少彦名命 すくなひこなのみこと 恵比寿様)、三ノ宮(平将門命 たいらのまさかどのみこと)の鳳輦が登場した。
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 夏祭馬上はためく武者幟  北舟 
夏祭馬上はためく武者幟

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相馬野馬追の騎馬武者

 今年の本祭には、13年ぶりに勇壮な相馬野馬追(そうまのまおい)の騎馬武者8騎が日本橋からパレードに参加し、神幸祭に花を添えた。

美人武者

美人武者

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 相馬氏の始祖であり神田神社の祭神である平将門が、下総国(しもうさのくに)の野原に敵兵に見立てた野馬を放ち、軍事訓練を行ったのが相馬野馬追の起源と伝えられている。
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大道芸

 太神楽(だいかぐら)による大道芸。曲芸は江戸庶民の娯楽として定着した。

太神楽曲芸協会

太神楽曲芸協会の大道芸

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蘭陵王

 神幸祭の最後に(ぬえ)金太郎・蘭陵王(らんりょうおう)・鯱(しゃちほこ)の4基の曳物(ひきもの)が三越横から次々に登場した。東京芸大の学生が制作したもので、一橋中など大勢の学生たちが曳き歩いた。

蘭陵王

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 「蘭陵王」は古典芸能の舞楽・雅楽の有名な演目の一つで、中国大陸から伝わってきたものだという。略して「陵王」ともいう。 蘭陵王

 鵺は、頭が猿、尻尾は蛇、手足は虎の如くで、怪異な声で鳴く妖怪だという。
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日本橋・三越前のパレード

 曳物の登場で、三越前は大勢の見物客で埋まった。

日本橋・三越前のパレード

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 源頼政が壮年の頃、屋敷上空を毎夜徘徊し、天皇に災いをもたらした鵺を退治した。
 鵺は、空舟に押し込められて淀川に流され、その亡魂が旅の僧に回向(えこう 弔い)を請いに現れるという話が世阿弥によって「鵺」という能になった。 

鯱

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 「鯱」は棟飾りの一つ。頭は竜のようで、背に鋭いとげのある海魚の形をなし、大棟(おおむね)の両端につける。城郭建築に多く、鴟尾(しび 仏殿の大棟の両端に取り付けた装飾)の変形という。
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