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  Wa☆Daフォトギャラリー 特集!旅紀行

2001年6月15日制作

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BGM
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オンフルールの人々(フランス)

オンフルールの人々(フランス)

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テムズ川
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 船のある風景を求めて、海や川を巡る。前編は、イギリスからスタートして、日本、フランス、モナコ、ロシアの5ヵ国だ。

 テムズ川 River Thames

 ロンドン市内を流れるテムズ川の遊覧船。白黒の船体に赤がアクセントになっている。イギリスならではの配色だ。左に見えるのは、言わずと知れた国会議事堂。ビッグベンが見える。

 イギリス、イングランド南部を東流するイギリス最大の河川。カエサルの《ガリア戦記》ではサンスクリットのタマサー(〈暗黒の川〉の意)と同語源のタメシス川と記されている。またオックスフォードより上流はしばしばアイシス川と呼ばれる。総延長338km、流域面積約1万3600km2。イングランド南西部のグロスターシャーにあるコツウォルド丘陵東麓のテムズ・ヘッドに源を発し、上流部は沖積粘土層の広い盆地を形成して曲流、その後ゴーリングの横谷ではケスタ崖をなすチルターン丘陵とバークシャー丘陵を分断するが、中・下流ではロンドン盆地中央部を貫流し、河口は巨大ならっぱ状のエスチュアリー(三角江)をなしてノアと呼ばれる砂州から北海へ流入する。主要な支流としてはオックスフォードで合流するチャーウェル川のほか、ドーチェスターでのテーム川、レディングでのケネット川、ロンドンのブラックウォールでのリー川があり、また流域には上記の都市のほか、ウィンザー、グレーブゼンド、サウスエンド・オン・シーなどの都市が発達している。上・中流は森林や肥沃な混合農業地帯で散村が卓越するが、ロンドンより下流は工業地帯を形成し、沿岸には造船所やドック、機械・食品工場などがたち並ぶ。河川こう配が緩やかなため、古くから河川交通が盛んで、上流のレッチレードまでははしけが、川幅約45mのオックスフォードまでは小型船が、さらに川幅約230mのロンドンまでは外洋船が航できる。また運河によってセバーン、ブリストル・エーボン、トレントの各河川と結合されている。テムズ川の水は各種用水として重要なだけではなく、漁業や観光にも利用され、とくにオックスフォード大学とケンブリッジ大学のボート・レースは年中行事として有名である。ロンドン西郊のテディントンまで感潮し、ロンドン橋での干満差は約7mに達する。

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ストラトフォード
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ストラトフォード Stratford

 オックスフォードの近く、シェークスピアの生地だ。正確にはストラトフォード・アポン・エイボン、つまり、エイボン川のそばのストラトフォードという地名である。写真はエイボン川の支流だろうが、川巡りの観光船だろう。赤と黒、それに黄色の原色の船。いかにもイギリスらしい。

 イギリス、ロンドンの北西160km、ウォリックシャーの田園に囲まれた田舎町。正式にはストラトフォード・オン・エーボン Stratford‐on‐Avon。人口約2万1000(1981)。シェークスピアの生地として名高い。エーボン川に面した古い市場町として中世以来の歴史をもつが、近年は観光地として発展してきている。旧市内および近郊には1564年にシェークスピアの生まれた家(現在は博物館)や晩年の彼が1616年に世を去るまで余生を送った邸宅ニュープレースの跡(現在は公園)をはじめ、文豪ゆかりの教会、学校、民家などが残されており、教区教会ホーリー・トリニティの内陣には彼の墓がある。河畔にあるローヤル・シェークスピア劇場(1961年以前はシェークスピア記念劇場と呼ばれた)は1879年に建てられたものが焼失したのち1932年に再建されたものである。この劇場はローヤル・シェークスピア劇団の本拠として常時文豪の作品を上演し、また毎年ここでシェークスピア・フェスティバルが開かれ、イギリスの演劇活動の一つのメッカとなっている。64年に文豪の生誕400年を記念してその生家の隣に、研究と教育のための施設としてシェークスピア・センターが創立された。なお、アメリカ合衆国コネティカット州、カナダのオンタリオ州にもストラトフォードという町があり、それぞれシェークスピア劇のフェスティバルが催される。

03

グリニッジ
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グリニジ Greenwich

 グリニジにも観光船が並んでいた。黒に赤のストライプが入った船体。シックなデザインだ。

イギリス、イングランド南東部、大ロンドン都市圏の東部にある区。人口21万5000(1993)。地名は〈緑の港〉の意。テムズ川南岸に位置するロンドンの住宅・観光地区。1965年にグリニジ村とウリジ村が合併して成立。1884年に経度の基準点に採用された。ローマ時代にはドーバーからロンドンへ通じるウォトリング街道の要地であり、また中世にはデーン人の艦隊集結地ともなった。1423年にグロスター公ハンフリーがこの地の荘園を購入し、のちグリニジ公園として整備された。公園内には、チューダー朝時代に王宮にも利用された国立海事博物館や1675年創設の天文台、1873年に海軍病院を改装した王立海軍大学などがあり、河岸には帆船カティーサーク号が保存されている。天文台は1958年にサセックス州ハーストモンシューに移転を完了したが、本初子午線(通称グリニジ子午線)の標柱や標準時時計は残っている。

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カティサーク
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カティーサーク Cutty Sark

 19世紀に最速を誇った帆船カティーサーク。中国のお茶をロンドンに運んだ。3本マストに黒い船体は、なかなかかっこいい。現在もグリニジに保存されている。日本では、スコッチ・ウイスキーのカティーサークでその名が知られるようになった。

 19世紀のイギリスの快速クリッパー。3本マストのシップ型帆船で、1869年クライド川沿いのダンバートンで建造された。登録された総トン数は963トン、全長85m、幅11m。帆の枚数は34枚でその総面積3047m2

。当時の快速クリッパー、サーモピレー Thermopylae に対抗できるティークリッパーを目ざして建造されたもので、船尾には船主の心意気を示すかのように〈精神一到何事か成らざらん〉という意味の言葉が記されている。しかし当時は汽船が帆船にとってかわる時代であり、結局、中国茶をロンドンへ運んだのは8航海のみで、その後はオーストラリアから羊毛を運ぶウールクリッパーとして使用された。95年以後は国籍が変わったが、1922年篤志家により再びイギリス人の手に戻り、38年テムズ航海学校へ寄贈された。その後53年にはカティーサーク保存協会へ寄贈され、現在はグリニジの乾ドック内で博物館として公開されている。なお、船名は R. バーンズの詩《シャンターのタム》の中に出てくる魔女が着ていた短い下着の名からとったものである。
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馬のシッポをつかむ魔女

 カティーサークは、イギリスの詩人バーンズの「シャンターのタム」に出てくる魔女の名前だ。しかしその名前の意味は、魔女が着ている短い女性の下着、つまりシミーズ(シュミーズの転訛)のことだ。「シャンターのタム」では、乗馬途中に、魔女が馬の尻尾を掴む悪戯をする。この話から船名をとったカティーサークの船首像は、シミーズ姿で乳房をあらわにした魔女がポニー・テールを掴んでいる(写真)。

 カティーサークの船首像は、船首材の先端からそのまま魔女が飛び出してきたかのように取り付けられていて、興味深い。

船首像 figurehead

 船の船首に取り付けられた動物や人物などの像。船の船首には、船の安全を守るため、あるいは目的地へ安全に到着するように、古くから彫刻を施したり、目をかいたりしていた。本来、宗教的・呪術的目的であった船首の飾りはしだいに装飾的になり、17世紀のヨーロッパの軍艦では、船首、船尾ともに彫刻で埋められるほどになった。このころの船首像はライオンなどの動物が多かったが、やがて船の名にちなんだ人物像が用いられるようになり、19世紀の帆船では、人物像を主とする船首像だけが船の装飾として残るようになった。この時代の船首像は船の解体の際取り外され、欧米の海事博物館に多数展示されている。19世紀に入って蒸気船が出現すると船首像は急速に姿を消し、時に船首に装飾模様をかく程度となった。日本の船では、平安時代の竜頭鷁首

(りようとうげきす)の船、豊臣秀吉の軍船に竜の船首彫刻を用いた例は見られるが、一般に船に船首像を取り付けることは行われなかった。
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日本丸
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日本丸 Nippon-maru

 2001年6月、偶然にも神戸沖に錨泊中の二代目日本丸を撮影することができた。本サイト初のデジカメ映像である。4本マストの白いスマートな船体は、海の貴婦人と称せられるにふさわしく、優雅である。

 日本の代表的な練習用帆船。〈にっぽんまる〉が正式の名。初代は1930年神戸の川崎造船所において建造された4本マストのバーク型鋼製帆船。全長97.05m、総トン数2286トン。姉妹船に海王丸がある。商船学校では小型の帆船により船員教育を行ってきたが、海難事故が相次いだため明治後期からは安全性能のすぐれた大型船を使用するようになり、1904年の大成丸(総トン数2423トン)、24年の進徳丸(2518トン)に次いで地方公立商船学校の練習船として建造されたのが日本丸と海王丸である。第2次世界大戦中は帆装を撤去して輸送その他の任務についた時期もあるが、52年には帆装を復活させ、以後、運輸省航海訓練所の練習船として船員養成に貢献してきたが、84年ひとまわり大型の日本丸と交代し、現在は横浜港に保存されている。新しい日本丸も4本マストのバーク型帆船で、総トン数2570トン、全長110m。

 この度の行政改革で、航海訓練所は独立行政法人になった。船長以下職員は国家公務員であることには変わりない。

07

 
日本丸の祈り

 カティーサークの船首像は、馬の尻尾を掴み乳房をあらわにしたシミーズ姿の魔女だったが、日本丸の船首像は、胸に手をあわせて祈る女性像だ。いかにも清楚で美しい。航海安全か、それとも世界平和を祈っているのだろうか。(写真上)

海王丸の横笛

 姉妹船の海王丸の船首像は、横笛を吹く乙女だ。少女の顔がいかにも日本女性といった印象を受ける。清純・無垢といえる。(写真下)

 両船の船首像は、カティーサークとは違って、いずれも金色に塗られていて、船首材にぶら下がる様な形で取り付けられている。

(2001年5月、両船が揃って神戸入港中、デジカメで撮影)

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