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■ 八日目/6月30日(金):サンクトペテルブルク
観光(泊) ■ |
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▼ ツアー八日目は、朝9時過ぎに専用のツアーバスにてホテルを出発し、終日、サンクトペテルブルクの観光を楽しんだ。 |
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サンクトペテルブルクの衛星画像 |

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▲▼
朝一の観光は、サンクトペテルブルクを造ったピョートル大帝「夏の宮殿」である。午前10時ころ、ネヴァ川沿いの
エルミタージュ美術館近くの船着場から水中翼船に乗り、約30分の船旅で、フィンランド湾に面するペテルゴーフに着いた。 |
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高速船でピョートル大帝「夏の宮殿」へ |

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ペテルゴーフ(ピチルゴーフ)はサンクトペテルブルク・ペトロドヴォレツォヴヌイ区(
Петродворцовый район Санкт-Петербурга
)にある町で、ドイツ語で「ピョートルの邸宅」の意。こゝにピョートル大帝「夏の宮殿」(ペテルゴーフ宮殿)がある。 |
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サンクトペテルブルク中心部から西に約30km離れたフィンランド湾の南岸に面している。人口は約6万5千人。サンクトペテルブルク大学の二つのキャンパスのうちの一つがある。 |
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宮殿からフィンランド湾に注ぐ長い水路
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町が開かれたのは1705年、ピョートル
I
世による。1721年からは大理石の加工工場、1801年からは宝石の細工工場、1932年からは建築用石材の工場があった。その後は時計工場ができ、「Rocket」のブランド名で出荷されていた。第二次世界大戦中は前線となったため、町は壊滅し、1990年代になってやっと復興が完了した。 |
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大滝や噴水が美しい水の宮殿 |

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美しい噴水と庭園が素晴らしいピョートル大帝「夏の宮殿」は、北方戦争に勝利し、名実ともに大国となった若きロシア帝国にふさわしい宮殿である。ヴェルサイユ宮殿をお手本に、ペテルゴーフの段丘を利用して建てられた水の宮殿で、当時の勢いを彷彿とさせるものがある。 |
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1714年に建設がはじまり、フランスやイタリアなど世界中から優秀な建築家が集められ、ピョートル大帝自身も図面を引いて設計に参画した。一応の完成をみたのは、彼の死の2年前の1723年だったという。 |
ペテルゴーフ宮殿とも呼ばれるこの宮殿は、フランス式の「上の庭園」と噴水が見事で見所が多い「下の公園」があり、その間に大宮殿(バリショーイ・ドヴァリェーツ)が建っている。 |
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ぴょーとるの ふんすいいまに なつりきゅう |
The Summer Imperial Villa, Pyotr's fountains
even now. |
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ピョートル大帝「夏の宮殿」前の大滝と20mの噴水 /
下の公園 |

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▲▼ 下の公園の見所は、大宮殿前のテラスを利用した大滝(バリショーイ・カスカート)である。宮殿前広場の1段下のテラスの両側に7段の階段があり、金箔の銅像が建ち並ぶ。水は、中央階段を下って運河に入り、フィンランド湾に注ぐ。 |
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ライオン(スウェーデン)をねじ伏せているサムソンの噴水 |

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▲ 大滝全体で37体の金箔の銅像と64の噴水、142の水の噴き出し口がある。大滝を取り囲む銅像の中心にサムソン像があり、20mの噴水を吹き上げている。サムソン像は、ボルタヴァでの対スウェーデン戦勝利25周年を記念して1734年につくられた。勝利した日が「聖サムソンの日」だったことと、(ねじふされている)ライオンがスウェーデン国旗に描かれていることからこのデザインとなったという。 |
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アダムの噴水 |

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▲▼ 下の公園の東側に「アダムの噴水」が、西側に「イヴの噴水」がある。イチジクの葉でアダムだということがすぐに分かるが、なかなかハンサムな裸像である。金箔の銅像ではなく、地味な石像だが、良くできている。 |
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ハンサムなアダムの裸像 |

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下の公園には、皇族が使った小さな館が点在している。アダムの噴水の北東方のフィンランド湾が見渡せるところには、ピョートル大帝と王妃がプライベートに使用したモン・プレジール宮殿(ドヴァリェーツ・モンプレズィール)がある。大帝は、フィンランド湾が見えない大宮殿よりもこちらの方を好んだらしく、その名もフランス語で「おきにいり」という意味で、大帝自身が名付けたという。 |
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ピョートル大帝と王妃がプライベートに使用した「モン
・プレジール宮殿」 |

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▲ 写真にはないが、モン・プレジール宮殿の山手側に黄色いエカテリーナ棟が建っている。1762年、エカテリーナ II
世は、ロマノフ朝第6代のエリザヴェータ女帝の崩御に伴って即位した夫のピョートルIII世に対して、近衛連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した。 |
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この時、エカテリーナ II
世は軍服の男装で、自ら馬上で指揮を取り、ここからサンクトペテルブルクへ乗り込んだという。在位6ヶ月のピョートルIII世は、廃位・幽閉され、間もなく監視役のアレクセイ・オルロフに暗殺され、エカテリーナ II
世は、ロマノフ朝第8代皇帝として君臨した。 |
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エカテリーナ II
世は、ロマノフ朝の黄金時代を築き、後年、プロイセンのフリードリヒ
II 世(大王)やオーストリアのヨーゼフ
II 世と共に啓蒙専制君主の代表とされるが、ピョートルIII世が無能で、側近がエカテリーナ
II 世を支持したなどの理由はあるにせよ、夫を殺して皇位に着くという、日本では考えられない女傑であった。 |
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中心の噴水が回転する「太陽の噴水」 / 下の公園 |

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ピョートル大帝 Пётр
Вели́кий |
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▼ ピョートル I 世(1672-1725)は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682-1725)、初代のロシア皇帝(インペラートル
在位:1721-1725)である。大北方戦争で勝利し、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ)と称される。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの六男、母はナタリヤ・ナルイシキナ。 |
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ピョートル I 世の肖像画(1838) |

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ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保した。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。 |
これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、ロシア正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。 |
また、歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く徴用して、国家体制の効率化に努めた。1721年には大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。 |
ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、また、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される。 |
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ピョートル大帝湾 Залив
Петра Великого |
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ピョートル大帝といえば、日本ではピョートル大帝湾が有名である。海洋に関する国際条約のなかった時代に、ロシアの日本海側の海岸線に湾口閉鎖線を引き、内側全域を湾の内水と定めた。その奥行きは約80km、入口の幅は約200km、海岸線の総延長は1,500kmに及ぶ巨大な海域で、ピョートル大帝湾と名付けられた。沿岸にウラジオストクやナホトカ
などの重要港が立地している。この非常識な海域が歴史的湾としてロシアにその権限行使が認められるかどうか、大きな疑義がもたれている。 |
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ピョートル大帝の銅像
/
下の公園 |

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大北方戦争 Великая
Северная война
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大北方戦争(1700-1721)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成したロシア、デンマーク、ノルウェー、ザクセン、ポーランド、リトアニアとが北欧、中欧、東欧における覇権を争った戦争である。 |
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ポルタヴァの戦い
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ポルタヴァの戦い Полтавская
битва
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▲ ポルタヴァの戦いは、1709年6月27日(新暦7月8日)、東ウクライナのポルタヴァで行われたロシア帝国とスウェーデン王国の大北方戦争における最大の戦い。カール・グスタフ・レーンスケルド率いるスウェーデン軍と、ピョートル
I 世率いるロシア軍が交戦し、ロシア軍が勝利した。 |
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光り輝く宮殿聖堂 |

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ポルタヴァの戦いの後、スウェーデンは軍事的優位を喪失し、大北方戦争の行方を決した会戦となった。この大事な決戦で、スウェーデン軍のカールXII世は負傷のために直接指揮を執っておらず、これが敗因の一つになったといわれている。ロシア帝国は以後、日の出の勢いで大国への道を歩む。 |
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黄金の王冠を思わせる宮殿聖堂のクーポル |

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「上の庭園」は、見るべきところが殆どない。「地球の歩き方」にも解説が載っていない。写真下の大きな池のような噴水は、ネプチューンの噴水と名付けられている。
この宮殿側に「樫の噴水」がある。 |
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「上の庭園」より大宮殿を望む |

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▼ ペテルゴーフから引き返し、サンクトペテルブルクの都心に位置する宮殿広場に行った。ネフスキー通りの北西端にある
直線上のエルミタージュ美術館と湾曲する黄色い旧参謀本部の長い建物に挟まれ、中心にはアレクサンドルの円柱がそびえ立つ巨大な広場が宮殿広場(ドヴァルツォーヴァヤ・ブローシャチ)である。面積は81,000m2(約25,000坪)もある。モスクワの赤の広場と共にロシアの歴史を象徴する広場であり、現在もサンクトペテルブルクの中心地といえる場所である。 |
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宮殿広場中心のアレクサンドルの円柱 / サンクトペテルブルグ市内 |

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もともとサンクトペテルブルクは、ペトロパヴロフスク要塞とともに始まったが、早くも18世紀中葉には都市建設はネヴァ川の対岸に移り、1762年には冬宮(ふゆのみや)(現在のエルミタージュ美術館の本館)が完成。1834年、ナポレオン戦争の勝利を記念してアレクサンドルの円柱が建てられたことで、宮殿広場は、帝政ロシアを象徴する場所となった。 |
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アレクサンドルの円柱の先端 |

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この巨大な円柱は、イサク聖堂を建設したオーギュスト・モンフェンによって建てられたもので、高さが47.5mあり、先端には、戦争の勝利者であるアレクサンドル
I 世をモデルにした十字架を持つ天使の像が掲げられている。この円柱は、一枚岩の花崗岩でつくられ、直径約4m、重さ約650ton。2000人もの兵士がロープを引いて立ち上げたという。 |
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驚いたことに、この柱の基部は地中に埋められてはおらず、土台を補強されてもいない。つまり、この柱は、自重だけで立っているのである。地震の多い日本では考えられない建造物である。 |
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ロシアの紋章「双頭の鷲」に囲まれた円柱基部のレリーフ |
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↓エルミタージュ美術館 |

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▼ 旧参謀本部は、イタリア人建築家カルル・ロッシによって1827年に建てられた半円形の巨大な建築物である。アレクサンドルI
世の時代に流行したロシアにおけるアンピール(帝政)様式を代表する建物である。現在も軍の関係省庁が入居するほか、アルミタージュ美術館の施設としても使われている。 |
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宮殿広場に面する旧参謀本部 |

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▲▼ 旧参謀本部の両翼の建物は、ナポレオン戦争の1812年の勝利を記念した巨大な凱旋アーチで連結されている。アーチの頂上には、
古代ローマの戦車に乗った勝利の女神像が飾られている。これが一体の建物とすれば、サンクトペテルブルクで一番長い建造物である。 |
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ナポレオン戦争の勝利を記念した旧参謀本部の凱旋アーチ |

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