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2003年8月14日改訂

♪コッペリアのワルツ:ドリーブ Coppelia, Valse
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ベルサイユ宮殿
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ルイ16世 1754‐93 Louis XVI

ルイ16世

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アポロンの泉と大運河

 アポロンの神話をテーマにしたアポロンの泉(ラトナの泉、ラトゥーヌの泉)には、カエルにされた村人の姿が愛敬たっぷり。その向こうには長さ1,650mの大運河 グラン・カナル Grand Canal が拡がっている。途中で小運河 プティ・カナル Petit Canal と交差し、十字形になっている。運河の右(北方)一帯に、グラン・トリアノンなどの離宮がある。

アポロンの泉と大運河

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グラン・トリアノン 大離宮
 Grand Trianon

 バラ色の大理石を使った館で、ルイ14世の命令によって完成。ナポレオンもここを愛したという。

プティ・トリアノン 小離宮
 Petit Trianon

 ルイ15世が愛人ポンパドゥールに贈った小離宮で、マリー・アントワネットもここを愛した。当時、館に入ることが出来たのは、彼女のお気に入りの貴族だけで、招待されなかった人々の反感を買ったという。娯楽に費やした費用は膨大で取り巻きも眉をひそめたといわれる。

資料

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ベルサイユの森

 宮殿の周りは、ベルサイユの森が延々と続いている。離宮など宮殿周辺施設の見学は、余りにも敷地が広大すぎ、じっくりと見学するにはリュックを背負って1日がかりのハイキングとなる。時間のない人は、トラム tram を利用するか、レンタサイクルを利用する手がある。2頭立て馬車での半日コースもある。

トラム

アモー 田舎家
 Le Hameau

 マリー・アントワネットは、自然復帰説を唱えた哲学者ルソーなどの思想に感化されて、トリアノンの大池の周りに12の茅葺屋根の家を建てた。ここの畑でマリー・アントワネットがお百姓をしたという話があるが、どうもそうではなく、彼女は土に触ることもなかったという。写真は王妃の館。

愛の神殿

 マリー・アントワネットとフェルゼンが逢い引きしていたところ。愛の神殿は白大理石で造られている。マリー・アントワネットの寝室の窓から見えたという。

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王室礼拝堂

王室礼拝堂

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バロック

 (フランスbaroque ポルトガル語のbarroco(「歪んだ真珠」の意)に由来)芸術上の様式の一つ。美術史上1720年前後の南・西ヨーロッパに支配的であった不規則な形の建築・装飾の様式に始まる分類で、のち16〜18世紀にかけて現れた、それ以前の古典的な整然と均斉のとれた様式を逸脱して、動感にあふれた美術様式を特色づけることばとなり、同様の傾向の文学・芸術・時代精神一般の様式の総称ともなった。

 
 予約時刻がやってきたので、宮殿内の見学となった。順路が決まっていて、主な見学場所は、ヘラクレスの間、礼拝堂、ビーナスの間、ダイアナの間、軍神の間、メルクリウスの間、アポロンの間、闘いの間、会議室、鏡の間、王妃の寝室などだ。ロココ美術の心髄をたっぷりと堪能できる。

王室礼拝堂

 聖書の物語をモチーフにデザインされた彫刻の壁と、様々な大理石でおおわれた床。天井には豪華・華麗な天井画が描かれている。ロココ文化花開くこの礼拝堂で、ルイ16世とマリー・アントワネットは、華やかな婚礼式を挙行したのだったが...。

ロココ美術

 フランス国王ルイ14世時代末からルイ16世時代初期まで、フランスにおこり、全ヨーロッパに及んだ装飾形式。ロココ rococo はさらに、この時代の美術、文化を指す名称として用いられる。

 語源は、ルイ15世時代(1715‐74)に好まれたロカイユ rocaille 装飾にあり、〈バロック〉との対比から生まれた蔑称的な隠語だという。

 偉大さ、荘重さ、高貴、自己責任をひたすら追求した17世紀の文化に対して、ロココは愛らしさ、軽やかさ、心理的な自由、束縛のない世界を求めている。この種の感覚的・心理的な自由への欲求は、一方では貴族的な華麗さでおおわれ、やがてディドロらによって退廃として攻撃されることになる。しかし、情緒的なものの開発、軽やかさや自由への志向は、政治的・社会的な自由の確立と相応し、ときにはその前提となっていたとさえ考えられ、その意味でも〈バロック〉に対するものとして〈ロココ〉を認知することができる。

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ビーナスの間

中央がルイ14世の青年像。

ビーナスの間

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ベルサイユ宮殿のトイレ

 ルイ14世は、当初はパリのルーブル宮殿を居城としていた。だが、ルーブル宮殿は建物の内外が汚物まみれになり、その不潔さに耐えられず、べルサイユ宮殿に引っ越してきたという。

 ベルサイユ宮殿にはトイレがなかったというのは、誤解だった。ルイ15世のときは寝室の隣に上げ蓋式の便器を備えた部屋があったそうで、また、ルイ16世は水洗式のトイレを使用していたという。

 しかし、それ以外にトイレはなく、そんな中で、連日連夜舞踏会が繰り広げられた。招待を受けた紳士淑女たちは、香をたいた携帯の便器を持参したという。そうしないと、庭の森の片隅で用を足さざるをえなくなる。

 舞踏会参加者が携帯便器で用を足したあと、中身は従者が庭に捨てるのだという。宮殿に生活する人々も毎日便器の汚物を庭に捨てたらしい。かくて、ベルサイユ宮殿は、「宮殿自体も悪臭でムカムカするほどだ。通路、翼部分の建物の中庭、回廊などには尿と糞便があふれている。」と文献に記載されている。清潔だった中国の故宮とは雲泥の差である。フランスで香水が発達したのは、当然の成りゆきだった。

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ルイ16世 1754‐93 Louis XVI

ルイ16世

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幾何学模様

 庭園と同様、室内装飾にも斬新な幾何学模様が取り入れられている。

幾何学模様

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王妃マリー・アントワネット
 1755‐93
 
Marie‐Antoinette

マリー・アントワネット

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 フランス国王ルイ16世の王妃。オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘としてウィーンに生まれ、1770年にフランスの王太子(1774年に即位してルイ16世となる)と結婚した。

 美貌と才知に恵まれた彼女は、善良だが才気に乏しい夫王にあきたらず、いくつものスキャンダルをおこして国民の信頼を失った。フランス革命が始まると、態度を決めかねていた夫王を促して革命に反対するようにしむけ、宮廷における反革命の陰謀の中心になった。とくに、1791年6月、実家オーストリアの皇帝と通謀して、フランス国王一家の国外逃亡をはかって失敗するというバレンヌ Varennes 事件をおこし、王家に対する国民の不信を決定的なものにした。

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王のベッド

王のベッド

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 1792年8月に王政が廃止されたのちは、夫王や子どもたちとともに捕らえられ、夫王が処刑されたのち、彼女もまた裁判にかけられて、1793年10月に断頭台で処刑された。その運命は悲劇的であるが、嫁して夫を軽んじ、王妃でありながら国民を裏切った彼女にとって、それはむしろ当然の報いであった。

 マリー・アントワネットは、フランスの呼び方ではマリア・アントニアとなる。

王室のベッド

 絢爛豪華なベッドではあるが、予想外に小さい。写真ではよく分からないが、特に奥行きが短い。当時の人は、みんな足を曲げて寝たからだというのだが...。

王のベッド

王妃のベッド

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鏡の間 Galerie des Glaces

鏡の間

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鏡の間 Galerie des Glaces

 フィナーレを飾るのは、ルイ14世の居室として有名な鏡の間。1919年6月28日、第1次世界大戦の停戦条約であるベルサイユ条約の調印がここで行われたことで知られる。

 長さ75m、幅10m、高さ12mの鏡の間は、マンサールが設計したもので、装飾芸術の傑作といわれ、17の窓と、壁面にはめられた17面の鏡から構成される。天井画はル・ブランの手によるルイ14世の栄光の生涯を古代風の世界で描いた大壁画である。 

 鏡の間は、中央の建物の2階奥にあり、庭園に面している。

 ビジターは、写真でお分かりのように、上を向いて歩いている。通過する頃には首が痛くなること請け合いだ。

 ベルサイユ宮殿は、世界遺産の中でも超弩級の heritage ではあるが、貧しい生活を送っていた一般国民と余りにも乖離した貴族文化が異次元世界に構築された現実を延々と見せつけられると、虚構の文化を見る思いで、最後は呆れるばかりであった。おごれる平家、久しからず。諸行無常。50年の歳月をかけ、金にいとめをつけずに建造した宮殿も、いずれ滅びることは当然の摂理なのであった。(合掌)

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