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   旅紀行日本の花
2002年4月22日改訂
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2002年4月20日制作

上千本からのパノラマ(奈良・吉野山)

上千本からのパノラマ(奈良・吉野山)


ごだいごてんのう 1288年(正応1年)〜1339年(延元4年/暦応2年)

鎌倉幕府を倒し、日本史上・皇室史上ともに重要な位置づけがなされる天皇

 第96代に数えられる天皇。在位1318年〜1339年。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1年)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。1304年(嘉元2年)大宰帥となり、帥宮(そちのみや)といわれた。


 
後醍醐天皇像
(清浄光寺蔵)

 当時、皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが、大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良(くになが)に皇位を伝えようとし、尊治は邦良幼少時の中継ぎとして1308年(延慶1年)持明院統の花園天皇の皇太子に立った。
 尊治は儀式典礼に関心深く、学問・和歌など諸道に意欲的である一方、一生の間に20人前後の女性に40人近い子を産ませたように、絶倫な精力の持主であった。
 1318年に即位して以後、宋学への傾倒は著しく、1321年(元亨1年)親政開始後、強烈な個性をその政治に発揮する。
 それは著書《建武年中行事》《建武日中行事》等に結実する朝儀復興にとどまらず、綸旨(りんじ)に万能の力を与え、官位と家格の関係の固定化を打破して日野資朝、日野俊基らを登用したように、みずからの意志で貴族を位置づけ、寺社の神人・寄人に対する支配を排除しようとするきわめて専制的な意図を秘めており、親政機関の記録所の動きも活発であった。
 生前にみずからの諡号(しごう)を〈後醍醐〉と決めたように、延喜・天暦の治がそのよりどころだったが、後醍醐の政策は単なる復古ではなく、むしろ宋の君主独裁政治を目ざしたものとみられている。
 皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で、1324年(正中1年)腹心の貴族、僧侶、美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も、後醍醐は討幕を断念しなかった。
 1326年(嘉暦1年)皇太子邦良の死後、幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので、後醍醐の地位はさらに危くなり、1330年(元徳2年)以降、後醍醐は再び討幕に向かって動き出す。
 しかし、南都北嶺に皇子を入れ、みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに、関所停止令を発して商工民をひきつけ、悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に、近臣吉田定房、北畠親房は危惧を抱き、1331年(元弘1年)計画は幕府にもれ、後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。
 この失敗にもめげず、出家を拒否し元弘の元号を使いつづける後醍醐は、護良(もりよし)親王、楠木正成の軍事行動に呼応して1333年(元弘3年)隠岐を脱出、名和長年(なわながとし)に擁せられ、船上山(せんじようさん)から諸国に挙兵を呼びかけ、足利尊氏らの内応を得て、同年5月、ついに幕府を滅ぼし、建武新政(けんむしんせい)(鎌倉幕府を滅ぼしてから足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治)を開始した。
 〈朕の新儀は未来の先例〉という言葉のとおり、その政治は著しく専制的で、武将・貴族たちの強い反発を招き、新政は1336年(延元1年/建武3年)10月には瓦解する。
 しかし後醍醐はなおも吉野に南朝をひらき、北朝を奉ずる足利氏の幕府に対抗、京を回復する夢を抱きつづけたが、相次ぐ南軍の敗報のなかで1339年吉野で死んだ。後醍醐を最後として、天皇は全国的な政治の実権から離れることとなる。

蔵王堂近くの金輪王(きんりんのう)寺を行宮(あんぐう)とした後醍醐天皇の御歌

吉水神社(よしみずじんじゃ) 

 奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座。日本最古の書院造りで知られる。後醍醐天皇を主神とし、楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水院(きっすいいん)と称し、役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺(よしのしゅげんきぶせんじ)の僧坊で、後醍醐天皇吉野潜幸のとき、しばらく行宮(あんぐう 天皇の宿泊のために設けられる建物とされた。
 天皇の没後、後村上天皇が天皇の像を安置して奉斎したことに始まり、1875年神社とし、1889年その像は吉野神宮創建とともに移されたが、当社は天皇ゆかりの地として存続。当社書院(重文)は桃山期の造築部分があるが鎌倉末期より室町初期の書院造様式をよく伝え、また南朝関係の遺物を社蔵している。例祭9月27日。
 吉野山に逃れた後醍醐は、先に渡した神器は偽物で自分が正当な天皇であると主張し始め、ここに南北朝が始まる。
 先ず吉水院(きっすいいん 現在の吉水神社)に入った後醍醐は、さらに蔵王堂近くの実城寺を行在所(あんざいしょ 行宮(あんぐう)の中での天皇の御在所)とし、各地に激をとばすが、1339年(延元4年/暦応2年)8月16日没す。享年52歳。
 吉水院の東の如意輪寺(にょいりんじ)裏に後醍醐天皇の御陵である搭尾陵(とうのおのみさき)がある。この山陵は円墳で、天皇の無念を象徴するように御陵北方の京都に向かって築かれている。
 写真左は、吉水院の後醍醐天皇の玉座。

写真:資料画像

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