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 旅紀行日本の祭り

2010年1月31日改訂
祭囃子メドレー

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歌舞伎座に神輿差しをり鐵砲洲  北舟 

2005年5月28日制作

歌舞伎座に向かって神輿を差す新富睦の晴れ姿
歌舞伎座に向かって神輿を差す新富睦の晴れ姿(鐵砲洲祭/東京・東銀座)
鐵砲洲稲荷神社神紋   鐵砲洲稲荷神社   鐵砲洲稲荷神社神紋

鐵砲洲祭

新富睦

新富町しんとみちょう

 江戸時代は武家屋敷が建ち並ぶ大富町だったところが、明治元年、外国人居留地を目当てに花街(はなまち/かがい)が造られ、新島原と呼ばれるようになった。明治4年(1868)新島原が廃止されると、町名が両方の名を合わせた新富町となった。

新富町の登場

新富町の登場

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 祭には、昭和30年(1955)代まで、手古舞(てこまい)姿の新富芸者たちが艶やかに神輿の先頭を練り歩いたという。新富睦の長老たちの粋な首ぬき*姿は、かつての華やかな花街の雰囲気を彷彿とさせる。
  *首ぬき(くびぬき):祭りなどに着る襟・裾に模様が入っている着物。

新富睦の長老たち

地元・銀座4丁目東町会の代表者たちが後列で立ち合っている。

新富睦の長老たち

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台の上で拍子木を打つ新富町のリーダー

台の上で拍子木を打つ新富町のリーダー

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歌舞伎座玄関に進む新富町の神輿

歌舞伎座玄関に進む新富町の神輿

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梨地塗なしじぬり

神輿

 
 新富と書かれた駒札(こまふだ)を掲げた神輿は、台輪(だいわ)寸法が三尺(91cm)あり、昭和2年(1927)浅草の宮本卯之助が造った。豪華な梨地塗*(なしじぬり)屋根の四面それぞれに左三つ巴紋が三つ付けられている。
*梨地塗(なしじぬり):漆塗り面に金銀粉を蒔き、仕上げに透漆を塗って果実の梨肌のように表現する技法。

梨地塗の華やかな新富町の神輿

梨地塗の華やかな新富町の神輿

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拍手で迎えられる新富睦の神輿

拍手で迎えられる新富睦の神輿

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一本締めいっぽんじめ

  鐵砲洲稲荷神社によると、手締めのはじめに「いよー!」と発声するが、これは「いわおう(祝おう)」が語源とのこと。「よよよい よよよい よよよい よい」と十回手を打つことを一本締め又は十締め(とおじめ)という。

神輿をコントロールする新富町のリーダーたち

神輿をコントロールする新富町のリーダーたち

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丸を表す十拍手

 
 手を九回打って、その後一回打つのは、九の字にゝ(ちょん)を付けて丸という字にするためだという。十拍手により、丸く収まったことを祝うのが手締めの意味である。
   なお、一拍手だけの手締めは、関東一本締めと呼ばれるもので、江戸っ子の手締めではない。

歌舞伎座に向かって神輿を差す新富睦の晴れ姿

歌舞伎座に向かって神輿を差す新富睦の晴れ姿

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入船いりふね 三丁目
 続いての登場は、入船三丁目の神輿。町名からわかるように、川をさかのぼって船が出入りしたことから入船の名が付いたという。しかし、江戸時代は、この地は武家屋敷だったというからよく分からない。町として発展したのは明治以降だという。

歌舞伎座に向かう入船三丁目の神輿

歌舞伎座に向かう入船三丁目の神輿

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 入船三丁目の神輿は、台輪(だいわ)寸法二尺三寸(70cm)、昭和29年(1954)行徳(ぎょうとく)の後藤直光の作。

神輿を差す入船三丁目の氏子たち

神輿を差す入船三丁目の氏子たち

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 歌舞伎座に神輿差しをり鐵砲洲  北舟 
 

真打ち登場

 
 入船三丁目の神輿の次は、殿(しんがり)を務める宮元の大神輿の登場で、既に満を持して左に待機していた。

歌舞伎座を後にする入船三丁目の神輿

歌舞伎座を後にする入船三丁目の神輿

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