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 感動写真集

2006年2月4日改訂

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♪氷湖 水の宮

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2006年2月4日作成

座って矢を射る四半的

座って矢を射る四半的(飫肥城下まつり/宮崎県日南市)

飫肥城下まつり

四半的

撮影・原作 上平明

 

はじめに

   2005年10月15日(土)16(日)の両日、宮崎県日南市において開催された「第28回飫肥(おび)城下まつり」に行き、市内の名所旧跡と祭りのメインイベントである泰平(たいへい)踊りを撮影してきた。 参考:日南市の概要
日南市にちなんし

飫肥おび

の街並み

日南市飫肥の街並み

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日南市にちなんし

飫肥おび

 日南市の飫肥は、2004年9月から半年間放映されたNHK朝の連続テレビ小説「わかば」の第二の故郷として一躍有名になったところで、 その歴史は古く、天正16年(1588)から明治初期までの280年間、かつては日向(ひゅうが)の地頭(じとう)だった伊東氏の日向飫肥藩(ひゅうが・おびはん)5万1千石の城下町として栄えたところである。
 九州の小京都ともいわれる飫肥は、四方を山に囲まれた小盆地で、酒谷川が町を取り囲むように東南から西にかけて蛇行しており、飫肥城の外堀の役割を果たしている。

飫肥おび

案内図

飫肥案内図

 飫肥は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、飫肥城を中心に武家屋敷をはじめとする飫肥藩の史跡が当時の面影をとどめ、本町商人通りには昔ながらの本瓦に漆喰の壁をもつ商家造りの建物が並ぶ。
JR飫肥駅前と泰平踊りの像

JR飫肥駅前と泰平踊りの像

弁甲べんこう

筏流し
 この地方の飫肥杉(おびすぎ)は耐水性と弾力性に優れ、弁甲(べんこう)と呼ばれる造船材として重宝されてきた。江戸時代中期から盛んに杉の造林が行われ、全国でも有数の林業地帯として名を馳せてきた。

 近隣の山々から切り出された木材は筏に組まれ、弁甲筏流しと呼ばれて酒谷川や広渡川を下り、一旦海に出てから油津港(あぶらつこう)に集められ、弁才船(べざいせん)で大坂、江戸方面に出荷された。

 油津地区にある堀川運河は、第五代藩主・伊東祐実(いとう・すけざね)が建造させたもので、一旦外海に出なければならない不便さを解消し、木材を安全・安価に油津港に出せるようになり、藩の財政を大いに潤したという。
石橋を通過する弁甲筏流し

写真は油津港まつりで堀川運河から油津港へ回航する筏を再現したもの。勿論動力船は存在しない。

石橋を通過する弁甲筏流し

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飫肥城おびじょう

大手門
  大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢百年の飫肥杉を使用し、釘を使わない「組み式」で復元された。木造渡櫓(もくぞう・とろ)、本瓦葺きの重厚な作りの江戸時代の櫓門である。鬼瓦には、庵木瓜(いおり・もっこう)の家紋が、軒先瓦には月星九曜紋(げっせい・くようもん)が印されている。大手門前には当時の空堀の跡がそのまま残っている。

飫肥城おびじょう

大手門

飫肥城大手門

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武家屋敷通り
 大手門を出て左手東方に進むと、武家屋敷通りと呼ばれる横馬場通り(よこばばどおり)があり、かつては900坪ほどもある高級家臣の屋敷が並んでいたという。今でも苔むす石垣や風雅な武家門などが並んでおり、その景観は城下町・飫肥の象徴となっている。
閑静な武家屋敷通り

閑静な武家屋敷通り

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豫章館よしょうかん
 明治2年(1869)に藩主が知事に任ぜられ、城内より移り住んだ屋敷で、敷内にあった数百年の老樟(ろう・くす)にちなんで豫章館と名づけられた。 建物の使用木材は飫肥杉で、薬医門と広い庭園をもつ飫肥武家屋敷として最高の格式をもつ。
最高の格式を誇る豫章館

最高の格式を誇る豫章館

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鯉の遊泳
 本町(ほんまち)と大手門を結ぶ通りの中間に位置する掘割には、錦鯉などか遊泳している。昭和53年(1978)の飫肥城復元の際に鯉が放流されたもので、約100mの区間に300匹の鯉が泳ぎ、観光客の目を楽しませている。
鯉の泳ぐ道

鯉の泳ぐ道

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振徳堂しんとくどう
 振徳堂はかつての飫肥藩の藩校で、天保2年(1831)に第13代藩主・伊東祐相(いとう・すけとも)によって創立。後に江戸幕府に招かれ、昌平坂学問所 (しょうへいざか・がくもんじょ) の教授となった安井息軒(やすい・そっけん)やその父、滄州(そうしゅう)などが教授として多くの藩士を教育した。
 西南戦争の際には西郷方として参戦し戦死した小倉処平(おぐら ・しょへい)や、明治期に桂内閣の外務大臣として日露講和条約の全権大使を務めた小村寿太郎(こむら・じゅたろう)が振徳堂に学んだことは広く知られている。
藩校だった振徳堂

藩校だった振徳堂

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本町ほんまち 商人通り
 大手門から大手門通りを南西に下ると商業地域に至る。樽を店頭に置いたり、格子に壁燈籠や番傘を飾った商家などが軒を連ね、特に、電柱を廃した本町商人通りは、江戸時代を彷彿とさせる町並みである。
電柱がない本町商人通り

電柱がない本町商人通り

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間瀬田厚焼本家ませだあつやきほんけ
 江戸時代から続く厚焼卵の老舗。飫肥藩士・間瀬田泰右衛門が焼き始めたと伝えられる。現在の当主・泰啓さんは十代目。藩主もデザートに食べたという、ふんわりした厚焼で有名。お土産には最適。
藩主も食べた厚焼玉子の老舗

藩主も食べた厚焼玉子の老舗

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四半的しはんまと
 四半的は、永禄年間の戦国時代に飫肥城を守る為、付近の農民が竹作りの半弓を持って戦に参加し、勝利に貢献したことにより、娯楽用として持つことが許されたもの。
 射場から的まで四間半(8.2m)、弓と矢が四尺五寸(1.4m)、的が四寸五分(14cm)で全て四半であることから四半的と呼ばれ、座ったままで射ることが特徴。日南市の無形民俗文化財に指定されている。10射300円で体験できる。
座って矢を射る

四半的しはんまと

座って矢を射る四半的

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