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2003年4月25日改訂

♪海に帰る / KasedaMusicLabo

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2003年4月24日制作

辨才天(竹生島宝厳寺弁天堂)

辨才天(竹生島宝厳寺弁天堂)

周航歌 辨才天
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船廊下

船廊下

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 観音堂移築と同時にかけられた観音堂と本堂とを結ぶ船廊下は、秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用して作られたもので、重要文化財に指定されている。

宝厳寺(竹生島観音)

 竹生島宝厳寺(ほうごんじ)は、神亀元年(724)聖武(しょうむ)天皇が夢枕に立った天照皇大神より「江州(こうしゅう)の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。さすれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりであるという。
 行基は早速弁才天(宝厳寺では大辨才天と呼ぶ)像を彫刻し、本尊として本堂に安置。翌年には観音堂を建立し、千手観音像を安置した。これが現在の西国三十三観音霊場第三十番札所の観音堂(重要文化財)となった。

観音堂に拝む

観音堂に拝む

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観音堂の内部

観音堂の内部

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 堂内の柱や鴨居など至る所に紙のお札が貼られている。これが納札(おさめふだ/のうさつ)と呼ばれるもので、観音巡礼における参拝奉納のしるしである。
 爾来、天皇の行幸が続き、また、伝教大師(最澄)、弘法大師(空海)なども来島し、修業したと伝えられる。
 慶長7年(1602)太閤秀吉の遺命により、秀頼が京都の豊国廟(とよくにびょう)より桃山時代の代表的遺構である観音堂や唐門(からもん)などを移築させた。

観音堂唐門

観音堂唐門

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 観音堂の入口に建つ唐門は、唐破風(からはふ)を持ち、豪華な彫刻で飾られた桃山様式の荘厳な檜皮葺き(ひわだぶき)建築物で、国宝に指定されている。
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桃山様式の豪華な彫刻

桃山様式の豪華な彫刻

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宝厳寺観音堂

宝厳寺観音堂

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 国宝唐門

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不動明王

 不動使者ともいい、五大明王、八大明王の主尊、大日如来に仕える。今の形は、真言密教、円珍の頃から独立して信仰されるようになったという。
不動明王

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 密教では、真言陀羅尼(呪文)を一心に唱えると、その功力は絶大であり、いろいろな祈願がかなうという信仰があり、その功力を象徴する存在が不動明王である。三井寺(みいでら)の黄不動、高野山の赤不動、青蓮院(しょうれんいん)の青不動は特に有名である。
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宝厳寺弁天堂(本堂)

 弁天堂は、本尊辨才天が納められた竹生島最大の仏堂である。
 永禄元年(1558)全島が火災にあったが、慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐且元(かたぎりたんげん)を普請奉行とし、島内の伽藍を復興した。
 このとき造営された本堂(弁天堂)は明治初年の神仏分離の際、都久夫須麻神社の本殿として引き渡され、以来70年近く仮安置のままとなっていた。これを憂いた一信者の寄進により、1942年落成となった。
宝厳寺弁天堂(本堂)

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 弁天堂は、船着場から続く急な石段を登りつめた高台に建てられている。本尊の辨才天は、厳島(いつくしま 広島県)、江の島(神奈川県)の弁財天と並ぶ日本三弁財天の一つであるが、秘仏として公開されていない。堂内に鎮座する二体の辨才天は分身である。

辨才天

 辨才天(辨財天、弁才天)は、サンスクリット名サラスバティー Sarasvati が仏教にとり入れられたもの。妙音天(みょうおんてん)、美音天、大弁才天、大弁才天女などともいい、一般には弁天と略称されたり、〈べざいてん〉とも呼ばれる女神である。
 サラスバティーの語は古代インド各地の聖河の名称であり、それら大河の偉大さを神格化した豊饒の神であったが、やがて言語、音楽、学芸の神となった。
辨才天

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 多方面の技能をもち、豊かな国土を実現する弁才天に対する信仰は、日本には既に奈良時代に国家仏教の中にとり入れられた。
 伎楽と福徳の利益を兼ね備えた神としての信仰は、この後広まりをみせ、中世末期には七福神の一つとして、琵琶を弾く妖艶な姿を現す。また、頭に宝冠をいただき、手に宝珠や宝具を持つ八臂(はっぴ)の女神の座像なども造られている。
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弁天堂の内部

弁天堂の内部

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江戸時代の弁財天

 江戸時代には〈弁財天〉とも記されて、蓄財の神として町人をはじめ庶民の間に広く信仰されるようになった。
 元の姿は蛇神であるということから、水に縁のある所にまつり、好物の卵を供えたり、蛇の彫刻を飾ったりする風習が生まれた。
 蓄財を祈願する〈銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)〉など、信仰習俗も豊富で、己巳(つちのとみ)の日が縁日とされた。弁財天信仰はもともと仏教とともに伝来したが、日本の市杵島姫(いちきしまひめ)命と習合して神社の祭神となり、水神としての神格を備えることから、池や海の水辺にまつられることが多い。
 特に江の島、琵琶湖の竹生(ちくぶ)島、安芸厳島(いつくしま)にまつる弁財天が、日本三弁天として有名で、これに大阪箕面(みのお)山(滝安(ろうあん)寺)を加えて日本四弁天ともいう。
 寺院には境内に鎮守神としてまつり、庶民の現世利益の祈願にこたえているところも多い。  弁才天
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三重塔

三重塔

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和田義男

《 撮影 2003年1月12日 》
 
オリンパス CAMEDIA E-20
500万画素 280枚  350MB
ワイド・エクステンションレンズ使用

急峻な階段

急峻な階段

拡大写真(1200x765)261KB

 平成12年(2000)、江戸時代に焼失したと伝わる三重塔が浅井郡誌の中に残っていた設計図を基にして古来の工法に基づき6年の歳月を経て350年ぶりに復元された。
 高さ15.5mの朱塗りの塔は、内部の四本柱や四方の壁に8人の高僧の絵などが描かれており、竹生島にその偉容を誇っている。

竹生島を後に

竹生島を後に

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 竹生島は、信仰の島であり、弁財天の島であった。急峻な斜面に建つ伽藍は他に例を見ない。
 太閤秀吉や秀頼の庇護がなければ、今日の竹生島の隆盛はなかったかもしれない。しかし、この不思議な孤島のどこかに霊力が潜み、それ故に今日まで多くの人々を魅了し続けてきたのではないだろうか。
 約90分ほど滞在した後、寒々とした信仰の島を後にした。船のデッキに出ると、まっすぐな航跡が竹生島に向かって伸びており、いつまでも消えなかった。《完》
周航歌 辨才天
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