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和田義男

 旅紀行ジャパン

2009年12月20日改訂

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♪海のアラベスク・水の宮・桜川・氷湖・手をつないで 水の宮・和風BGM

 

白鳥の烏城に遊ぶ秋の昼   北舟

2009年12月20日制作

Autumn noon, the white birds enjoying at the Crow Castle.

白鳥の泳ぐ烏城公園

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白鳥の泳ぐ烏城公園/岡山城(岡山県岡山市)

秋の岡山城後楽園

岡山城

はじめに

 平成21年(2009)11月20日(金)、家内と共に東京駅から新幹線で岡山駅に行き、岡山城と後楽園を観光した。

 

【凡例】  ▲:上の画像の説明文  ▼:下の画像の説明文  〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示

頭を雲の上に出した富士山(3,776m) / 富士市富士川  2009.11.20 11:00

頭を雲の上に出した富士山(3,776m) / 富士市富士川  2009.11.20 11:00

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  ▲▼ 東京から岡山に向かう途中富士川を通過する新幹線のぞみの車窓から「あたまを雲の上に出し」ている富士山が見えた。愛機オリンパスE-30 の秒速5コマの連写モードで撮影したので、トラス橋の鉄骨の間から富士山をうまく切り取ることができた。  
  雲海に浮かぶ富士の嶺天高し  北舟 

うんかいに うかぶふじのね てんたかし

The high sky, the top of Mt. Fuji floating on the sea of clouds.

頭を雲の上に出した富士山(3,776m) / 富士市富士川  2009.11.20 11:00

頭を雲の上に出した富士山(3,776m) / 富士市富士川  2009.11.20 11:00

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  ▼ 写真下は、1月ほど前の10月28日(水)羽田から福岡に向かう途中、富士吉田上空・高度1万メートルを飛行するANAジャンボ機から、「あたまを雲の上に出し」ている富士山が見えた。文部省唱歌「富士山」の歌詞さながらの素晴らし光景だった。  

富士山 / 作詞:巌谷小波 文部省唱歌

一、


 
あたまを 雲の上に出し
四方の 山を見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は日本一の山
二、


 
青空高く そびえ立ち
からだに雪の 着物着て
霞のすそを 遠くひく
富士は日本一の山

頭を雲の上に出した富士山 / 富士吉田上空  2009.10.28 11:50

マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。

頭を雲の上に出した富士山 / 富士吉田上空  2009.10.28 11:50

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史跡・岡山城

  ▼ JR岡山駅の東方約1.5kmを豊かな清流を湛(たた)えて蛇行しながら南流する一級河川・旭川(あさひがわ)を挟んで南北に岡山城(おかやまじょう)と後楽園(こうらくえん)がある。岡山城は、天守閣の土台(天守台)が不等辺五角形という特異な形をしているが、本格的な城づくりの嚆矢(こうし)とされる織田信長の築いた安土城に習って造られた。
岡山城と後楽園の衛星写真

岡山城と後楽園の衛星写真

資料:Google Earth

   天正元年(1573)、宇喜多直家(うきた・なおいえ)は、当時この地の城主であった金光宗高(かねみつ・むねたか)を滅ぼし現在の位置より西に300mほどの石山にあった城を修築して入城した。現在の岡山城を築いたのは、直家の実子・秀家(ひでいえ)で、時の天下人・豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。
岡山城案内図(北が左になっているので注意)

 

↓不等辺五角形の天守閣

岡山城案内図(北が左になっているので注意)

   秀吉が天下を取ると、秀家は57万石余の大大名となったため、石山の小さな城では満足できなくなり、秀吉のアドバイスに従って現在の天守閣が立つ岡山という名の小高い丘に新しく旭川の流れをつけかえ、掘削した土砂を盛り上げて上中下三段の地形を造成し、約8年の歳月をかけて、慶長2年(1597)に岡山城を完成した。
白鳥の泳ぐ

烏城うじょう

公園

白鳥の泳ぐ烏城公園

拡大写真(1600X950)487KB

  白鳥の烏城に遊ぶ秋の昼  北舟 

しらとりの うじょうにあそぶ あきのひる

Autumn noon, the white birds enjoying at the Crow Castle.

紅葉の石垣と石段

紅葉の石垣と石段

  ▼ 国指定重要文化財の月見櫓(つきみやぐら)は、第5代藩主・池田忠雄(いけだ・ただかつ)が元和・寛永年間(1615〜1632)に建てたもので、文字通り「月見」という風流を楽しむためにも用いられたが本来の目的は、中段(表書院)の北西を防衛するためのもので、櫓自体は武器の貯蔵庫になっている。
国宝

月見櫓つきみやぐら

国宝・月見櫓

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  ▲ 城外からみれば二階建だが城内からみると三階建となっており一階は土蔵となっている。また、城外側は狭い隙間から敵を監視したり石垣を登る敵を迎撃するための石落など軍備を高めているが、城内側の最上階は開放的で手すりを備えた縁側がある。また天井板を張るなど居住性を高めた造りで、戦国時代の終結を象徴する和戦両用の特徴をもつ。

岡山城天守閣(西面)

岡山城天守閣(西面)

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  不明門(あかずのもん)正門にふさわしい風格を備えた間口9間の大型櫓門である。この奥の本段には藩主が日常生活を営む御殿があり入ることができるのは、特に限られた身分の人であった。そのため、通常は閉じられたままで使用されることはなく不明(あかず)の名はこれに由来する。明治期に解体されたが、現在のものは、昭和41年(1966)に天守閣とともに再建された鉄筋コンクリート製である。

不明門あかずのもん

不明門

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  ▼ 宇喜多秀家によって新しくつくられた本丸(城の中心で内堀に囲まれた部分)は、現在も殆ど昔のまま残っており、約4万m2の広さがある。天守閣は、石垣からの高さが20.45mあり、二階建の建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造となっている。屋根には金箔を貼った鯱(しゃちほこ)、鬼瓦軒瓦が葺かれ黒地に金が映えて、燦然(さんぜん)と輝く天守閣の偉容を演出している。 岡山城公式ホームページ  
岡山城天守閣(南面)

↓塩蔵

 

岡山城天守閣(南面)

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  ▼ 十二村哲(とにむら・てつ)作詞、飯田景応(いいだ・けいおう)作曲の「岡山城」という歌があり、天守閣のそばに歌碑が立っている。この二人のコンビで生まれた「月の法善寺横丁」は藤島桓夫(ふじしま・たけお)が歌って大ヒットした。

岡山城

一 栄華の夢を 現(いま)にして 雲井に映ゆる 天守閣 月見櫓よ 石垣よ
                                        鶴が羽ばたく 後楽園も 姿変わらぬ 岡山城
 
二 歴史の絵巻 浮かべつつ 流れも清き 旭川 松の梢を 吹く風に
                                昔しのべば 武士(もののふ)どもの 声が呼ぶような 岡山城
 
三 烏城(うじょう)の名さえ なつかしく 壮麗誇る たたずまい 三十一万 五千石
                               空を仰げば いらかの波に 金鯱(きんしゃち)も躍るよ 岡山城
岡山城の歌詞

岡山城の歌詞

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  ▼ 岡山城は、天守閣外壁の下見板(したみいた)には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされると、烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、烏城「うじょう」と呼ばれた。長野県松本市に立つ国宝・松本城も烏城と呼ばれているがそちらは「からすじょう」という。壁が黒いのは秀吉が好んだからで、戦国時代の名残である。家康が天下を取ってからは、黒を嫌って白壁となってゆく。
烏城と呼ばれた岡山城天守閣

烏城と呼ばれた岡山城天守閣

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