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旅紀行日本の裸祭り

2003年1月23日改訂

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2002年11月8日制作

鞍馬の火祭り

鞍馬の火祭り(京都北山)

鞍 馬 火 祭

掛け声を聞こう → さいれーや、さいりょう! (wavファイル 72KB)

 若者たちの伝統の衣装がユニークである。向う鉢巻に黒い繻子(しゅす)のふんどしをキリリと締め、白い下がりをつけている。短い襦袢で肩と腕を覆い、白布の肩当てを襷掛けしているほかは裸である。足には脚絆・黒足袋・武者草鞋(わらじ)をはいている。松明の火の粉が容赦なく降りかかり、火傷(やけど)しないか心配になる。 祭りの豆知識 (京都新聞)
 あちこちで高さ3mの大篝火が炎を吹き上げ、鞍馬の町の坂道は家々のエジ(小篝火)・松明・大松明で火の川と化し、山門前の石段は、若者たちが担ぎ上げた大松明の火の粉が舞い、熱気と煙の匂いが立ちこめる。

剣鉾の飾席

 鞍馬の火祭りは、鞍馬寺の鎮守社・由岐神社の例祭で、毎年10月22日に行われる。(雨天決行) 大小の松明を担いで「さいれーや、 さいりょう!」の掛け声とともに鞍馬街道を練り歩く紅蓮の炎の祭典として知られ、那智の火祭りや久留米市・玉垂宮(たまたれぐう)の鬼夜(おによ)とともに日本三大火祭りに数えられる。
 天慶3年(940)京都・御所の内裏(だいり)にあった靱(ゆぎ)社を鞍馬に勧請するに際し、地元民が松明を持って供奉(ぐぶ)し、道筋に篝火を焚いて迎えたという故事にならって始められた。
 午後6時「神事に参らっしゃれ」の合図(神事触れ)が響くと、鞍馬街道に沿った氏子約150軒の軒先のエジ(小篝火)に一斉に火がつけられ、祭りが始まる。まずトックリ松明を手に、色鮮やかな着物姿の幼児が街道一帯を行き来する。
 続いて、小、中の松明を担いだ小学生、中・高生が加わり、鞍馬太鼓が「ドンコ、ドンコ、ドコ、ドコ、ドン」と打ち鳴らされる中、「さいれーや、さいりょう!」と掛け声を掛けながら通りを練り歩き、最後に、長さ5m・重さ80kgを超える大松明を3〜4人がかりで担いだ若者たちが加わる。
 午後8時頃、菊・桐・蝶・葵・鳳・百足・寺の鉾や鎧を着た武者が七つの宿から出てくると、山門前には大小の松明を担いだ若者たちが集合してひしめき合う。

火祭り情報

 火祭りは午後6時からだが、始まる前に大篝や大松明を据え、鉾を飾っている七仲間の宿の飾席(かざりせき)も見ておきたい。祭のクライマックスは午後8時〜10時半頃。大勢の観客で身動きできないほど混み合う。帰りの叡山電車の待ち時間は1〜2時間。鞍馬温泉に宿泊するには一年前にくじ引きで決められるので、宿泊は不可能に近い。
 松明は小さいものから巨大なものまで、この小さな町によくこれだけ担ぐ人がいたものだと思うほど、次から次に現われ、大勢の観客の前を練り歩いていく。
 その数約500本。午後9時過ぎ、町内各地区の鉾が大小の松明の先導で神輿が据えられた山門前の石段に勢揃いし、「さいれーや、さいりょう!」の掛け声の中、炎と火の粉の饗宴は佳境を迎える。
 午後9時20分ころ、合図の太鼓とともに注連縄(しめなわ)切りの儀が行われ、青葉の精進竹に張られた注連縄が切られる。
 続いて神輿渡御が始まり、火の粉が舞うなか、神輿2基が若者たちに担がれて山門から下りてくる。各神輿の後には鎧武者が乗り、石段では二人の若者が夫々の神輿の先の担い棒に足を逆さ大の字に上げてぶら下がる。これをチョッペン (chyoppen) の儀といい、かっては鞍馬の若者が成人になるための儀式であった。
チョッペンの儀

資料

 神輿の背後には綱がつけられ、坂や石段から神輿が急に降りないよう町の乙女たちが綱を引く。神輿を引くのに女性が参加するのもこの祭の特色だ。この綱を引くと安産になると伝えられているので若い女性が多い。
 山門を下ったところから神輿は車に乗せられ、町内を巡幸し、お旅所に着くと神輿は再び担がれる。神楽の囃子にあわせて4本の大きな神楽松明が各々4〜5人の若者たちに担がれて巡回する。神輿が御旅所に安置されて儀式が終わるのは午後12時頃になる。

志賀直哉
1883(明治16)-1971(昭和48)

 志賀直哉は、大正10年(1921)から11年にかけて発表した彼の代表作《暗夜行路》の中で、鞍馬の火祭りを取り上げている。主人公の時任謙作が京都の衣笠村(京都市の金閣寺の近く)に住んでいるとき、この祭りを友人とともに見物した。後編の十七に4ページにわたって詳細な描写がある。(新潮文庫 363〜366ページ)

 十月の下旬のある日、謙作は末松、水谷、水谷の友達の久世などと鞍馬に火祭と云うのを見に行った。日の暮れ、京都を出て北へ北へ、幾らかの登りの道を三里程行くと、遠く山の狭(はざま)がほんのり明かるく、その辺一帯薄く烟(けむり)の立ちこめているのが眺められた。苔の香を嗅ぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそう云う夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。子供連れ、女連れの見物人が提灯をさげて行く。それを時々自動車が前の森や山の根に強い光を射つけながら追い抜いて行く。山の方からは五位鷺が鳴きながら、飛んで来る、そして行く程に、幽(かす)かな燻(いぶ)り臭い匂いがして来た。
 町では家毎(ごと)、軒先に──と云っても通りが狭いので、道の真中を一列に焚火が並んでいた。大きな木の根や、人の背丈け程ある木切れで三方から囲い、その中に燃えているのが、何か岩間の火を見るような一種の感じがあった。
 焚火の町を出抜けると、稍(やや)広い場所に出た。幅広い石段があって、その上に丹塗(にぬり)の大きい門があった。広場の両側は一杯の見物人で、その中を、褌(ふんどし)一つに肩だけ一寸(ちょっと)した物を着て、手甲、脚絆、草鞋(わらじ)がけに身を固めた向う鉢巻の若者達が、柴を束ねて藤蔓(ふじづる)で巻いた大きな松明を担いで、「ちょうさ、ようさ。──ちょうさ、ようさ」こういう力ン(りきん)だ掛声をしながら、両足を踏張り、右へ左へ踉蹌(よろ)けながら上手に中心を取って歩いている。或る者は踉蹌ける風をして故(わざ)と群衆の前に火を突きつけたり、或る者は家(うち)の軒下にそれを担ぎ込んだりした。火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一抱え程あるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。若者は汗を拭き、息を入れているが、今度は又別の肩にそれを担ぐ。それも一人では迚(とて)も上げられず、傍(そば)の人から助けて貰うのである。
 この広場を抜け、先きの通りへ入ると、其所(そこ)にはもう焚火はなく、今の松明を担いだ連中が「ちょうさ、ようさ」という掛声をして、狭い所を行き交う。子供は年相応の小さい松明を態(わざ)と重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持ちのいい温もりが感ぜられる。
 星の多い、澄み渡った秋空の下で、こう云う火祭を見る心持ちは特別だった。一筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方は又高い山になっていると云うような所では幾ら賑わっていると云っても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。これが都会のあの騒がしい祭りより知らぬ者には大変よかった。そして人々も一体に真面目だった。「ちょうさ、ようさ」この掛声のほかは大声を出す者もなく、酒に酔いしれた者も見かけられなかった。しかもそれは総(すべ)て男だけの祭である。
 ある所で裸体(はだか)の男が軒下の小さな急流に坐って、眼を閉じ、手を合わせ、長いこと何か口の中で唱えていた。清いつめたそうな水が乳の辺りを波打ちながら流れていた。大きな定紋のついた変に暗い提灯を持った女の児(こ)と無地の麻帷子(あさかたびら)を展げて持った女とが軒下に立ってその男のあがるのを待っていた。漸(ようや)く唱え言を終わると男は立って、流れの端しに揃えてあった下駄を穿(は)いた。帷子を持った女が濡れた体に黙ってそれを着せ掛けた。男は提灯を待たず、下駄を曳きずって直ぐ暗い土間の中へ入って行った。これはこれから山の神輿を担ぎに出る男であるという。
 こう云う連中が間もなく石段下の広場に大勢集まった。其所には二本の太い竹に高く注連縄(しめなわ)が張渡してあって、その注連縄を松明の火で焼切ってからでなければ誰もその石段を登ることができないとの事だ。しかし縄は三間より、もっと高い所にあって、松明を立ててもその火は却々(なかなか)(とど)きそうにない。沢山の松明がその下に集められる。その辺一帯、火事のように明かるくなり、早くそれの焼切れるのを望み、仰向いている群衆の顔を赤く描き出す。

 やがて、漸く火が移り、縄が火の粉を散らしながら二つに分かれ落ちると、真先に抜刀(ぬきみ)を振翳した男が非常な勢で石段を駆登って行った。直ぐ群衆は喚声をあげながら、それに続いた。然し上の門にもう一つ、それは低く丁度人の丈より一寸高い位に第二の注連縄が張ってある。先に立った抜刀の男はそれを振翳した儘(まま)駆け抜ける。注連縄は自然に断(き)られる。そして群衆は坂路を奥の院までその儘駆け登るのである。
 「どうだい、もう帰ろうか」と謙作は末松を顧みて云った。
 「お旅でやるお神楽を見て行こうよ」
 神楽というのは四五人で担ぐような大きな松明を幾つか、神楽の囃子に合わせて、神輿の囲りを担ぎ廻るのである。
 「大概もう分かったじゃないか。早く帰って寝て置かないと明日の音楽会で参るぜ」
 「何時だ──二時半か」時計を見ながら末松が云った。
 「これで京都へ帰ると丁度夜が明けるかも知れませんよ」と水谷が云った。
 「それじゃあ、帰るか」末松は未練らしく云った。「神輿を下ろす時が却々勇ましいそうだ。坂だから段々早くなるので、太い縄をつけといて、それを女が大勢で逆に引張るのだそうだ。この祭りで女の出るのはそれだけなんだ」
 「兎(と)に角帰りましょう。夜が明けてから三里、陽に照らされて歩くのは想いですよ(注)」と水谷が云った。

 末松も納得した。焚火の町では、来る時、岩間の火のように見えていたのが今は盛んに燃えていた。町を出ると急に山らしい冷気が感ぜられた。四人は時々振返って、明るい山の狭(はざま)を見た。道は往きより近く思われ、下りで楽でもあったが、矢張り皆は段々疲れて、無口になった。
 京都へ入る頃は実際水谷が云ったように叡山の後ろから白ら白ら(しらじら)と明けて来た。出町の終点で四人は暫く疲れた体を休めた。間もなく一番の電車が来て、それに乗り、謙作だけは丸太町で皆と別れ、北野行きに乗換え、そして秋らしい柔らかい陽ざしの中を漸(ようや)く衣笠村の家(うち)に帰って来た。

(注)想いですよ:いかにも気が重いことだ、の意

 全文を忠実に掲載した。作者の細やかな観察眼はさすがプロだと感心する。暗夜行路が書かれた大正時代の火祭りは、夜中の1時2時に行われていたのだろうか。祭リの掛け声を「ちょうさ、ようさ」と表現しているが、現在では明らかに「さいれーや、さいりょう!」という。大正時代から現在までの間に掛け声が変化したとは考えられないので、作者の記憶違いかと思われる。 《 完 》

炎、踊る

 京都・鞍馬の由岐神社に伝わる「鞍馬の火祭」。10月22日夜、静かな山あいに「サイレヤ、サイリョウ」の掛け声が響き、大小約500本のたいまつの炎が夜空に揺れた。
 午後6時、鞍馬街道沿いの家々の前にかがり火がたかれ、はちまきをした氏子らがたいまつを担いで街道に繰り出した。その数は次第に増え、午後8時半ごろ、鞍馬寺の山門前に集まった。
 大きなたいまつは約4メートル、重さ100キロほど。氏子らは火の粉を浴びながら、汗だくで支えた。祭りには観光客ら約1万2千人(京都府警調べ、午後10時現在)が見物に訪れた。

(朝日新聞 2002年10月23日朝刊社会面 大松明を持ち石段の注連縄の前で佇むふんどし姿の氏子の白黒写真が5段抜きで掲載)

写真撮影:さや 調製・解説:和田義男  頭んなか旅のことでい〜っぱい
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