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 旅紀行ジャパン

2003年5月5日改訂
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2003年5月4日制作

三重塔と那智大瀧(和歌山県)

三重塔と那智大瀧(和歌山県)

那 智 新 宮 本 宮
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熊野速玉大社の入口

熊野速玉大社の入口

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千早振る 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代の ためしにぞ折る

藤原定家

熊野速玉大社 熊野速玉大社は、熊野三山の一つとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮である。今から約二千年ほど前の景行天皇(58年)の御世に、熊野三所権現が最初に降臨した神倉山から現在の地に移り、神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と号したと古書にある。
 御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている。
 特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、また、熊野三山の中でも逸早く熊野権現の称号を賜った。 熊野速玉大社のHP

 熊野速玉大社ホームページ「御由緒」には、仏教の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ 本地仏)とは全く逆に、神が仏という仮の姿になって現れるという解説がある。しかし、同じHPで「熊野三所権現が最初に降臨した神倉山・・・」(前掲)と熊野三所権現を神としてとらえており、矛盾している。
 JR那智駅から東方13km、三つ目の駅が新宮である。3月15日は新宮駅前のホテルに泊まり、翌朝、熊野三山のひとつ、新宮市にある熊野速玉(はやたま)大社に行った。駅から歩いて15分ほどのところにある。

 下馬橋をわたり、鳥居をくぐり、右折して表参道に入ると、神門が見えてくる。境内は意外と狭い。

梛の大樹

梛の大樹

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熊野速玉大神像(10世紀 熊野速玉大社蔵)

熊野速玉大神像
檜一木造10世紀/大社蔵

 表参道の左側に(なぎ)の大木が茂っている。この木は熊野権現の御神木で、平重盛(清盛の嫡男)が植えたと伝えられる。
 樹高20m、幹廻り(みきまわり)6mの我が国最大の梛の巨木で、国の天然記念物に指定されている。
 なぎは凪に通じ、巡礼者は水上の旅の安全を祈り、梛の葉を折ってお守りにしたという。

熊野御幸

 境内に熊野御幸(くまのごこう)と題する記念碑がある。後白河上皇33回、後鳥羽上皇29回、鳥羽上皇23回など皇族23人が延べ140回も熊野詣をしている。すごい回数だと感心する。 
 中でも後白河上皇(1127〜1192)は最多の33回もの熊野詣を行った熱烈な信者であった。本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられていたからだという。 本地仏
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神 門

神 門

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転読:僧侶が経本を扇のようにパラパラと広げながら経文の要所を略読して読誦したことにすること。→真読:経典を省略せずに全部読むこと。
 後白河上皇の撰述になる梁塵秘抄(りょうじんひしょう)口伝には、熊野詣のことが記されている。
熊野御幸の記念碑

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 第2回の御幸記録によると、後白河上皇は応保2年正月21日より精進を始めて、同27日に出発。2月9日本宮に幣を奉り、本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻転読してたてまつったという。
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 わするなよ 雲は都をへだつとも なれて久しき みくまのゝ月

後白河上皇

根本熊野権現拝殿

根本熊野権現拝殿

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 拝殿の奥に千木(ちぎ)と勝男木(かつをぎ)が見える。左端が女神、その右が男神である。現在の社殿は、昭和27年から45年まで18年がかりで造営されたもので、まだ新しく、華やかな雰囲気が漂う。

華やかな千木と勝男木

 神殿の屋根の両端に交差して高く突き出ている部分が千木(ちぎ)である。両端が水平に切られているのが女神、垂直の切り口が男神を表す。
 その間の棟に対して直角に並んだ水平の横木を勝男木(かつをぎ 堅魚木、葛緒木)と呼ぶ。いずれも装飾のためのものである。
華やかな千木と勝男木

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牛王宝印

 牛王宝印(ごおうほういん)は、寺社が頒布する護符(お守り)である。特に熊野の三社権現のものが有名で、その裏に誓約(起請)文を書く誓紙(熊野誓紙)として、戦国武将たちの盟約や商人の取引などに広く使われていた。
 牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされた。
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熊野牛王宝印の絵文字

熊野本宮大社 (88羽)

熊野那智大社 (72羽)

熊野本宮大社の牛王宝印 熊野那智大社の牛王宝印

┌───────┐
│ 山   熊 │
│   印   │
│ 宝   野 │
└───────┘

 

 

┌───────┐
│ 瀧   那 │
│   印   │
│ 宝   智 │
└───────┘

熊野速玉大社(新宮) (48羽)

熊野速玉大社の牛王宝印

┌───────┐
│ 山   熊 │
│   印   │
│ 宝   野 │
└───────┘

 熊野牛王宝印

 牛王(牛玉 ごおう)という不思議な名は、牛黄(ごおう 牛の胆嚢(たんのう)結石で貴重な霊薬)をお札の朱印に用いていたことに由来するらしい。
 これらは三社によって丹念に浄められ、神仏の加護を念じ、その霊威を封じる「八咫烏(やたがらす)神事」により調製されるという。

絵文字

 熊野の牛王宝印は八咫烏(やたがらす)と宝珠が組み合わされた絵文字で、三山それぞれデザインが異なる。

 本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽の烏が使われており、本宮と新宮は「熊野山宝印」、那智は「那智瀧宝印」と記されている。俗に「おカラスさん」とも呼ばれ、三社とも1枚500円で頒布している。

菜の花の沖と熊野牛王

 高田屋嘉兵衛の一生を描いた司馬遼太郎の名作「菜の花の沖」にも熊野牛王が登場する。嘉兵衛が淡路島の都志(つし)で働いていた若衆宿の時代、浜に干していたイリコ(煮干し)のぬしと(ぬすっと)の嫌疑を晴らすため、現場で真犯人の駒吉を捕まえ、口をきかせないように駒吉の褌を外して口にねじ込み、麻縄で縛り上げ、縄のはしを舟のへさきに絡める。
 かれは義叔父の喜十郎に事情をうちあけ、熊野牛王を一枚もらってきたのである。それに矢立(やたて)も借りてきた。夜が白んだ。嘉兵衛はそれを待ちかねたように、
 「駒吉、これが世に熊野牛王の誓紙といわれるものぞ」と、駒吉の目の前にかざしてみせた。
 自分の他者に対する約束を熊野三山の権現にかけて誓うという誓紙で、破れば神罰たちどころにくだるという。
 この誓紙は、山伏などが熊野三山から貰ってきて売るもので、紙いっぱいに墨の木版刷りで「熊野御宝印」という五文字が、三行にわけて刷られている。文字はすべて烏の姿を寄せあつめて作られており、たとえば熊の字だけで十四羽の烏で構成される。その五文字の中央下へ大きな朱肉の宝印が押されているが、怪奇な文字の形といい、黒と朱のあざとさといい、なんとも神異な感じがする。(文春文庫 菜の花の沖(一) 98〜99頁)
 このあと駒吉は、誓紙の裏に「いりこぬしとは かへいにござなく こまきちに ござそろ」と書く。嘉兵衛はそれを駒吉の前の風呂敷の上に置き、その上に小石を乗せる。
 司馬遼太郎が文中で使った誓紙は、熊の字が14羽(実際は18羽)ということで熊野本宮大社のものであることがわかる。五文字を「熊野御宝印」としているが、「熊野山宝印」の誤りである。(山を御とはとても読めない。)
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♪ 新宮節

お燈祭りは 男の祭り

山は火の瀧 下り龍

538段の急な石段は建久4年(1193)源頼朝が寄進したとされる。
祭り当日、上り子たちは、太平洋を望む王子ヶ浜で禊ぎを行い、心身を清めてからお燈祭りに参加する。
神倉神社のお燈祭り

新宮市資料

神倉神社

 新宮市の西、神倉山中腹の巨大な磐の上に乗る「ゴトビキ(ひきがえる)岩」は、市内のどこからでも見える。この岩をご神体とする神社が神倉(かみくら)神社で、熊野速玉大社の境外摂社(せっしゃ)である。神倉神社
摂社:その神社の敷地内にある祭神と深い関係を持つ神々(配偶神、血縁関係を持つ神など)を祀った小規模な神社
 歴史は古く、古事記に登場する天照大神と高倉下命(たかくらじのみこと)とを祀る。急な石段を登ると、ゴトビキ岩の下に小さな社がある。
 今は無人であるが、かつては修験者たちの行場で立派な本殿があり、途中には山伏寺もあったという。

山伏寺:山伏が入峰修行を実践する寺

熊野御燈祭

 2月6日には豪快な御燈祭(おとうまつり)が行われる。NHKの朝ドラ「ほんまもん」で一躍有名になった。未だに女人禁制で、写真を撮るだけでも女性は入れない。
 御燈祭は、神倉山に降り立った神を人々が迎えた「神迎え」と、神が山を下りて熊野速玉大社へ鎮座するまでの「再臨」を再現した神事である。
 敏達(びたつ)天皇の頃(570年頃)初めて行われたと記録にあるが、その由来は明らかでない。毎年怪我人が出る勇壮な祭りである。
 約2000人の荒縄を胴に巻いた白装束の上り子(のぼりこ)が松明を持ち、阿須賀神社、熊野速玉大社、妙心寺を順に参拝して神倉神社へ。神事の後、火を松明に点火し、競って538段の石段を駆け下りる。昭和39年和歌山県無形民俗文化財に指定された。お燈祭り1 お燈祭り2
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