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和田義男

 旅紀行ジャパン

2008年11月24日改訂

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昨 日

「海ゆかば」メドレー

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天高し原爆ドームの慰霊塔   北舟

2008年11月24日制作

The high sky,
The cenotaph to see the A-Bomb Dome.

原爆慰霊碑の前で

原爆慰霊碑の前で(広島平和記念公園/広島市)

秋の広島散策

平和公園

 
広島に投下された原子爆弾
   第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)8月6日午前8時15分17秒、アメリカ合衆国空軍爆撃機 B-29 エノラ・ゲイ号が広島県広島市にMk-1核爆弾リトルボーイを投下した。

原爆投下前の広島市中央部

同心円の中心が爆心地 すぐ左上に目標の相生橋 画面右上の矩形は広島城

原爆投下前の広島市中央部

写真:フリー百科事典 Wikipedia 

   これは実戦で使用された世界初の核兵器による都市攻撃であり、都市を対象とした爆撃では史上最大級の規模であった。この爆弾一発により市街地は潰滅し一般市民十数万人を殺害した人類史上類を見ない大虐殺であった。非戦闘民を殺害することは、いかなる理由があるにせよ、重大な国際法違反である。

広島に投下された原子爆弾によるきのこ雲

広島に投下された原子爆弾によるきのこ雲

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写真:フリー百科事典 Wikipedia 

   広島に投下された原爆は約50キログラムのウラン235が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波)・熱線・放射線となって放出され、それぞれの割合は50%・35%
・15%であったという。

被爆直後の広島市

赤十字病院より北西を臨む

被爆直後の広島市

写真:フリー百科事典 Wikipedia 

   B-29の通常爆弾最大積載量は5トンであり、B-29の3,000機分の通常爆弾が一度に投下されたことに相当する。東京大空襲(1945年3月10日)では、B-29・344機により投下された爆弾(焼夷弾)は総計1,720トンであったので、広島原爆(15,000トン)はこの東京大空襲の約9倍相当の破壊エネルギーを東京の10分の1程度の都市に瞬時に投下したことになるという。

原爆による全焼区域(赤)

原爆による全焼区域(赤)

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写真:フリー百科事典 Wikipedia 

   爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が殆ど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊し、木造建築は全壊した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館(現・原爆ドーム)は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破した。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。

瀕死の重症を負った男性

腹巻きをしていたため腰の周りだけ火傷を免れている

瀕死の重症を負った男性

写真:フリー百科事典 Wikipedia 

   強力な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発した。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残されたという。

原爆ドームとコーラス隊

原爆ドームとコーラス隊

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鎮魂歌「広島平和の歌」を歌う学生たち

鎮魂歌「広島平和の歌」を歌う学生たち

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原爆ドーム
 
 原爆ドーム A-Bomb Dome の名で知られる広島の平和記念碑 Hiroshima Peace Memorial広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑である。

負の世界遺産に指定されている原爆ドーム

負の世界遺産に指定されている原爆ドーム

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 もとは広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。二度と同じような悲劇が起こらないようにとの戒めや願いをこめて、ユネスコの「負の世界遺産」に登録されている。

崩落防止工事がなされた原爆ドーム

崩落防止工事がなされた原爆ドーム

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   「負の世界遺産」という表現そのものには厳密な定義はないが、他にアウシュヴィッツ(ビルケナウ強制収容所)や、2001年にタリバンに破壊されたバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群などがその例とされる。

原爆ドームを見上げる観光客

原爆ドームを見上げる観光客

 原爆ドームの所在地は広島市中区大手町1丁目10。原爆投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園(通称・平和公園)が広がっている。北は相生通りを挟んで広島市民球場と向き合う。東側約200mの位置に爆心地と推定される島病院がある。原爆は島病院の上空約600mで炸裂したという。

元安川もとやすがわ

と原爆ドーム

元安川と原爆ドーム

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原爆の子の像

 
 「原爆の子の像」は、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆し、白血病のため12歳の若さで亡くなった佐々木禎子(ささき・さだこ)さんが死の直前まで生きる願いを託して折り続けた千羽鶴がモチーフになっている。

原爆の子の像

原爆の子の像

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 折り鶴を高く掲げる銅像は禎子さんがモデル。同級生等による募金運動により昭和33年(1958)5月5日に完成したもので、「千羽鶴の塔」「折り鶴の塔」とも呼ばれ、全国から沢山の折り鶴が供えられている。

折り鶴の塔で黙祷する生徒たち

折り鶴の塔で黙祷する生徒たち

 

平和祈念像

 
 昭和52年(1977)年8月に広島平和祈念像建設会(代表:前田佳哉)が作成したもので、彫刻は圓鍔勝三(えんつばかつぞう)。 碑文には次の言葉が刻まれている。
「1945(昭和20)年8月6日原子爆弾の一閃は全市を廃墟と化し、20有余万の生命を奪い去った事実は世界史上初の一大痛恨事として永遠に忘れる事は出来ない。
爾来幾星霜、我々は地下に眠る精霊歔欷の声に応え平和を求め続けて来たがいまだに核戦争の脅威と人類滅亡の不安に脅かされている。よって我々は原爆犠牲者の生命を永遠ならしめ、人類悠久の平和を願うため、かねて全国の児童生徒に呼びかけ浄財の募金運動を展開し、有志団体の協力を得て、今こゝにこの像建立の目的を達成した。我々の願いは必ずや世界恒久平和への道に通じるものと確信する。」

平和祈念像

平和祈念像

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広島平和記念公園

 
 昭和24年(1949)、原爆投下と同じ日である8日6日に「広島平和記念都市建設法」が制定され、世界に向けて人類の平和を願い、過去の過ちを繰り返さないために、爆心地に近いこの周辺に公園の建設が計画され、昭和29年(1954)4月1日に広島平和記念公園が完成した。

平和の灯・原爆慰霊碑・原爆資料館

平和の灯・原爆慰霊碑・原爆資料館

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  毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分に黙祷が捧げられる。式典では市内中学校高校の吹奏楽部による♪広島平和の歌  広島平和の歌/歌詞 の演奏合唱団による合唱が行われる。
 筆者は、学生の頃、浅田石二作詞、木下航二作曲の名曲 ♪原爆を許すまじ を習った。反戦歌として有名なこの曲の哀愁を帯びた低く静かなメロディは、私の脳裏に深く焼き込まれ、現在も正確に歌うことが出来る。それほどインパクトの強い歌である。
燃え続ける平和の灯

燃え続ける平和の灯

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   広島平和記念公園は平成19年(2007)に国の名勝に指定された。戦後完成した公園・庭園として初の例であるという。このときは平和公園の中央部分のみの指定であったが、平成20年(2008)には公園全体に指定部分が拡大された。  
 原爆死没者慰霊碑、原爆供養塔、平和の鐘、原爆の子の像、レストハウスなどが主な建築物で、南側に広島平和記念資料館、広島国際会議場、北東に原爆ドームがある。
原爆死没者慰霊碑と原爆ドーム

碑文: 安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから

原爆死没者慰霊碑と原爆ドーム

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  天高し原爆ドームの慰霊塔  北舟 

てんたかし げんばくどうむの いれいとう

The high sky, The cenotaph to see the A-Bomb

Dome.

原爆慰霊碑の前で

原爆慰霊碑の前で

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原爆死没者慰霊碑
 
 この慰霊碑の設計は丹下健三(当時東京大学助教授)が担当。平和記念公園の敷地内の広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に設置されている。原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、屋根の部分が埴輪(はにわ)の家型をしている。中央の石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者の氏名を記帳した名簿が納められている。
 慰霊碑に納められる「原爆死没者名簿」は、関係者の申し出により毎年書き加えられている。記載数25万8310人(2008年8月6日現在)は、広島市により確認された「死没者総数」である。新規登録者数の推移を見ると、存命する被爆者が少なくなってきているという。

学生観光客で賑わう広島平和記念公園

学生観光客で賑わう広島平和記念公園

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広島平和記念資料館
 
 通称「原爆資料館」と呼ばれる「広島平和記念資料館」は、広島市への原爆投下の惨状を今に伝える資料を展示しており、広島平和記念公園の中にある。 建築家の丹下健三が設計し、昭和30年(1955)に開館した。
 平成18年(2006)、資料館西館は、同じく広島市内の世界平和記念聖堂と共に第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定された。この重要文化財への指定に機に、従来の「西館」の名称は「本館」と変更された。

学生で賑わう原爆資料館(本館)

学生で賑わう原爆資料館(本館)

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   館内には、当時の生々しい惨状を伝える遺品や写真、爆心地のジオラマなど、どれも正視に耐えないものが展示されている。アメリカが投下した悪魔の原爆がこの世の地獄をもたらしたことが実感され、「原爆許すまじ」の怒りがこみ上げてくる。この衝撃的な歴史的遺品の数々が記憶の風化を防ぎ、世界平和の願いを強く訴えてくれる。

原爆投下時刻で停止している腕時計

原爆投下時刻で停止している腕時計

写真:フリー百科事典 Wikipedia 

 

嵐の中の母子像

 
 昭和34年(1959)第5回原水爆禁止世界大会が開かれた際、原水爆禁止日本協議会が、本郷新*(ほんごう・しん)が石膏で作ったこの像を広島市民に贈った。
 原爆の惨禍の中を二人の子どもをかばいながら懸命に逃げて行く母の姿を描いている。爆風を避けるため前かがみになった母親は、右腕で赤ん坊をしっかりと抱き、左腕は腰に伸ばして幼な子を背負っている。
 広島市婦人会連合会が子どもを命がけで守る崇高な母の姿をぜひ母の手でブロンズ像にして平和公園に設置したいと立ち上がり1口20円(今の500円前後)の募金活動を始め、僅か1年で150万円集まり建てられたという。
*本郷新:1905.12.9 - 1980.2.13 北海道札幌生まれの日本の彫刻家。1953年日本平和文化賞受賞。

広島平和記念資料館と嵐の中の母子像

広島平和記念資料館と嵐の中の母子像

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Wa☆Daフォトギャラリー

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