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和田義男

 旅紀行ジャパン

2004年4月14日改訂

♪君が泣くから  BGMの小箱

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2004年4月14日作成

多摩川の桜(東京都羽村市)

多摩川の桜(東京都羽村市)

多摩川の右岸に出ると、道標が立っていた。全長138kmの多摩川の海から54kmの地点にいることが分かった。

中里介山の作品

多摩川の両岸には満開の桜が続いていた。そよ風に舞う桜吹雪が素晴らしい。女の子が花びらを追っかけた。

花びらを追う女の子

花びらを追う女の子

拡大写真(1200x900)258KB 【E-1 108mm   F8.0 1/500秒 ISO200】

玉のような桜花

桜の表情

玉のような桜花 桜の表情

拡大写真(1200x900)276KB 【E-1 62mm   F9.0 1/500秒 ISO200】

拡大写真(1200x900)108KB 【E-1  44mm   F8.0 1/400秒 ISO200】

佇む人

佇む人

拡大写真(1200x900)258KB 【E-1 108mm   F7.1 1/500秒 ISO200】

羽村市郷土博物館

 羽村堰から歩いて15分ほどで、多摩川右岸(南西側)に立つ羽村市郷土博物館に着く。昔からの生活用具や羽村堰の説明など、羽村の自然・歴史・文化が展示されている。中でも「大菩薩峠」で名高い羽村出身の作家・中里介山の資料が充実している。 羽村市郷土博物館

羽村市郷土博物館

拡大写真(1600x830)211KB 【E-1  24mm  F10.0 1/400秒 ISO200】

大菩薩峠にある文学碑

大菩薩峠にある文学碑

資料

中里介山なかざとかいざん

 神奈川県西多摩郡羽村(東京都羽村市)の生れ。本名は中里彌之助。西多摩尋常高等小学校に学んだが、多くは独学である。12歳で上京、何度か帰郷・上京をくり返しながら電話交換手、代用教員などを勤めた。

 多摩の民権的気風の残照の中で育ち、キリスト教的社会主義の思想的洗礼を受け、日露開戦を機に反戦詩人として立つ。しかし戦後は懐疑的になって新たな宗教的模索をつづける。

 明治39年(1906)、「今人古人」を処女出版した後、都新聞社へ入社、新刊批評などを手がけ13年間在社、その間「氷の花」「高野の義人」などを同紙に連載、新聞小説の骨法を身につけた。
 大逆事件の弾圧に深く沈潜するものがあり、その思いをこめて大正2年(1913)より「大菩醍峠」を連載、大衆文学の一大巨峰を形づくった。

 ほかに「浄るり坂」「夢殿」「小野小町」などの長編もあるが、マスコミ的風潮を好まず、印刷機を購入して自家出版したこともあり、文壇からも離れ、独自な人生観、処世観を貫いた。
 多摩の各地に草庵を結び、敬天愛人克己をスローガンに塾教育を実践して西隣村塾を開いた。額に汗して耕しながら学ぶという考えは青年期にトルストイの影響を受けて以来のものであり、「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)*の思想につながる。
 戦時下にも抵抗の意識を貫き孤高の態度を崩さなかった。昭和19年(1944)腸チフスで急逝した。
* 上を向いては自分自身、日々修行をして悟りを求め、下に向かっては人々に仏の道を説いて迷える人を教化するの意。

中里介山の作品

中里介山の作品

大菩薩峠だいぼさつとうげ

 中里介山の代表的長編小説。大正2年(1913)に都新聞に連載されたのを皮切りに、東京日日新聞・国民新聞・読売新聞・隣人之友などに書き継がれ、書下ろしを加えて第41巻まで執筆されたが、昭和19年(1944)に作者の病没で未完となった。
 作者自らこの作品の趣意を説明して「人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼陀羅の面影を…うつし見ん」と述べているが、音無しの構えの無明の剣客机竜之助を中心に壮大な物語が展開する。

 武州御岳(みたけ)神社の奉納試合で机竜之助が宇津木文之丞を殺し、その妻お浜を奪って江戸へ走り、敵とねらう文之丞の弟兵馬がそれを追う発端から、話は京都、伊勢、甲州、安房、信州、飛騨と拡がり、最後には東経170度、北緯30度の椰子林(やしりん)共和国にまで及ぶ。
 登場人物も多岐にわたり、竜之助、兵馬のほか怪盗七兵衛、進歩派の駒井能登守、神尾主膳、間の山(あいのやま)のお玉ことお君、精悍無比な米友や小坊主弁信など特異な人物群像が多く、時代長編の一大巨峰として、それ以後の大衆文学に深い影響を与えた。
 ニヒル剣士竜之助像の創造には作者なりの時代批判があり、善悪の彼岸に生きようとする意図もあったが、しだいに思想性、宗教性を加え、作者はこれを「大乗小説」と称した。
 作中でお玉がうたう「間の山節(あいのやまぶし)」は人の世の無常を示すと同時に全巻を貫くモティーフをあらわしており、「上求菩提・下化衆生」の具象化とみられる。

 妖剣をふるう盲目の剣客机竜之助の特異な人物像、彼をめぐる多彩な登場人物の流転、波瀾万丈の筋立てなど、あらゆる点で時代劇映画の魅力をそなえているところから、「大菩醍峠」はこれまでに5度(本数にして12本)映画化されている。
南光優氏 撮影

大菩薩嶺と富士の来光 

2003年1月2日

大菩薩嶺

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大菩薩嶺だいぼさつれい

 山梨県北東部、秩父山地にある鶏冠山から滝小山へと続く連山を大菩薩連山または大菩薩山塊という。その最高峰が大菩薩嶺(2057m)。山容は、西側と東側の斜面は急峻で、南面はゆるやかな草原で全体に丸みを帯びている。山頂である二等三角点の周囲は樹林に囲まれているため展望はないが、山頂近くの雷岩からは甲府盆地や秩父山地、富士山が一望できる。
 また峠までの尾根上に続く草原では、富士山や南アルプスの山々を展望しながら歩く。明るいカヤトの原や豊かな森林、岩場の山道など、コースも変化に富み、四季を通じて楽しめる。

大菩薩峠だいぼさつとうげ

 秩父山地にある峠。標高1897m。西の笛吹川支流、東の多摩川上流の分水嶺で、北に大菩薩嶺がある。青梅街道の第一の難所であったが、明治初期に青梅街道が北側の柳沢峠(1472m)をまわるようになって街道から外れた。
 中里介山の長編小説「大菩薩峠」によって有名になり、文学碑がある。富士山、南アルプス、秩父連峰の眺めがよく、ハイキングの適地。近くには山荘もあって宿泊ができ、中央本線塩山駅から登山口の裂石までバスの便がある。付近には雲峰寺、天目山など武田氏をめぐる史跡が多い。

禅林寺

拡大写真(1200x900)276KB 【E-1 34mm  F8.0 1/240秒 ISO200】

禅林寺ぜんりんじ

 JR羽村駅南口から羽村堰に向かって歩いて行くと、暫くして禅林寺に至る。多摩川のすぐそばである。本堂裏は段丘になっており、煩悩坂というゆるやかな参道を「中里介山の墓→」という標識に従って登っていくと、檀家の墓地に至る。入口が分かりにくいが、やっと「中里家之墓」を見つけた。
 「大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡荻原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里に跨る難所がそれです。」と始まった世界一の長編小説「大菩薩峠」は、28年間にわたって書き続けられたが、終戦間近の昭和19年(1944)、思わぬ腸チフスを煩った介山は、4月28日午前8時15分、西秋留(にしあきる)の病院で急死し、ニヒルで特異な甲源一刀流の剣客「机龍之介」を生み出した一大長編小説も未完となって終わってしまった。
 中里家の墓誌には、中里家先祖代々之諸精霊と題し、23番目に「修成院介山文宗居士 昭和十九年四月二十八日 彌之助 五十九才」と書かれている。

介山が眠る中里家之墓

中里家の墓誌

介山が眠る中里家之墓 中里家の墓誌

拡大写真(1024x768)168KB 【E-1 22mm  F7.1 1/250秒 ISO200】

拡大写真(1200x900)254KB 【E-1 34mm   F5.6 1/160秒 ISO200】

 禅林寺の垣根の一角に美しい花が咲いていた。春爛漫を思わせる明るく艶やかな花は、ボケの花であった。
1本の木に様々な色の花が咲いており、不思議に思った。
 木瓜は、バラ科の落葉低木。中国原産の観賞植物。高さ1〜2m。枝にはとげがあり、葉は長楕円形。春、紅色・淡紅色・白色・絞りなどの五弁花を開き、リンゴに似た硬い果実を結ぶ。もけ。「木瓜の花」は春の季語で「木瓜の実」は秋の季語。 

艶やかなボケの花

艶やかなボケの花

拡大写真(1200x900)113KB 【E-1 46mm  F8.0 1/400秒 ISO200】

ボケの花の素顔

ボケの花の素顔

拡大写真(1200x900)113KB 【E-1  74mm   F9.0 1/640秒 ISO200】

まいまいず井戸

 最後は、東京都指定史跡のまいまいず井戸を訪ねた。JR羽村駅北口のすぐそばの五ノ神神社境内にある井戸で、形がかたつむりに似ていることから「まいまいず井戸」と呼ばれている。土質が弱かったため筒状に掘れず、渦巻き状に造られた特異な形の井戸である。
 昭和36年(1961)に町営水道が整備されるまで使われ、豊富な水量は渇水したことがなかったと伝えられる。ただ、大雨のときは、雨水がすり鉢状の底辺に流入し、井戸水が混濁したものと思われる。

まいまいず井戸

東京都教育委員会の説明文

東京都指定史跡

まいまいず井戸       所在地 羽村市五ノ神1丁目1番地

 まいまいずとは、かたつむりのことで、井戸に向かって降りる通路の形がこれに似ているため名づけられたものである。 この井戸は地元伝説では大同年間(806〜 810)に創始されたものとしているが典拠はない。 形態および板碑などの出土から見て、鎌倉時代の創建と推定される。 さく井技術の未発達の時代に筒状井戸の掘りにくい砂礫層地帯に井戸を設ける必要から、このような形態をとるにいたったものである。 おそらく、隣接の熊野神社(現在・五ノ神神社)とともに村落の中心になって継続して使用されてきたものと思われる。

 元文6年(1741)に、当時の五ノ神村の村中の協力で井戸普請が行われた記録があり、その後も数回修復されてきたが、昭和35年町営水道開設に伴い使用を停止した。
 地表面での直径約16m、底面の直径約5m、深さ約4.3m、すり鉢状の窪地の中央に直径約1.2m、深さ5.9mの掘り井戸がある。 地表面からは周壁を約2周して井戸に達するようになっている。

平成8年3月8日    東京都教育委員会

まいまいず井戸

拡大写真(1200x900)209KB 【E-1 22mm F4.5 1/100秒 ISO200】

注:文中の表記は全て35mm換算によるもので、 22mmは11-22mmズームレンズの11mmで撮影したという意味です。

和田義男

 
  撮影 2004年4月3日
 
《 OLYMPUS E-1 》

 
11-22mm 14-54mm 50-200mm

500万画素


 425枚  470MB
 

 玉川上水といえば、作家として類い希な才能を持ちながら、酒と女たちの愛欲に深く溺れた太宰治(だざいおさむ)山崎富栄(やまさきとみえ)とともに入水自殺したことで知られる。
 入水は三鷹付近で、昭和23年(1948) 6月13日(日)の夜半のことであったが、遺体は6日後の明け方に下流の新橋近くで発見された。
 二人は紐でしっかりと結ばれていたという。太宰治の墓は、森鴎外の墓のある三鷹の禅林寺にある。

 中里介山も羽村の禅林寺であり、偶然とはいえ、3人の作家が禅林寺に眠っている。

 多摩川紀行もこれで12集を数える。ようやく中身が充実し、これが多摩川だと胸を張って紹介できるようになってきたのが嬉しい。今後も源流や河口付近などに足を運び、四季折々の多摩川の魅力を追い続けたい。〈 完 〉
玉川上水 多 摩 川 大菩薩峠
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