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比叡山延暦寺 常行堂

常 行 堂

2002年7月16日制作

  比叡山延暦寺1/2 比叡山延暦寺2/2 夏の叡山延暦寺 和田義男
01

 

延暦寺東塔入り口

 天台宗総本山  滋賀県大津市坂本本町 TEL077-578-0001

比叡山 京都市の北東にそびえ、京都府と滋賀県にまたがる山。日枝(ひえ)、叡山、北嶺(ほくれい)などとも呼ばれた。大比叡岳(848m)が主峰で、そのすぐ西にある四明岳(839m)と北に連なる釈ヶ岳(750m)、水井山(794m)、三石岳(676m)の南北12kmに及ぶ5峰を総称して比叡山と呼ぶ。
 登山路としては東麓の大津市坂本から延暦寺東塔の根本中堂に至る本坂(ほんさか)が最も重要で、京都側からは白川道、雲母坂(きららざか)道などが主に利用されたが、昭和初年に坂本から根本中堂付近までと西麓の京都市左京区八瀬(やせ)から四明岳付近まで、ケーブルカーやロープウェイが敷設されたため、それまでの登山路はすたれた。
 1958年(昭和33年)根本中堂から四明岳に通じる比叡山ドライブウェーが開通し、山頂一帯は観光・レクリエーション地域に変貌した。更に1966年(昭和41年)には1964年(昭和39年)の琵琶湖大橋の完成にあわせて、根本中堂から横川(よかわ)を経て琵琶湖岸の大津市堅田(かたた)に至る奥比叡ドライブウェーが開通した。

延暦寺東塔地区

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紺紙金銀交書法華経

紺紙金銀交書法華経

天台宗 中国・随の天台大師の教えを継承する宗派。日本の天台宗は、これを継承した比叡山の伝教大師最澄(767〜822)を宗祖としている。天台宗は韓国にもあり、同じ宗派名が東洋の3国にあるのは、天台宗のみである。
天台大師 伝教大師・最澄

天台大師

伝教大師・最澄

天台大師 天台大師は、釈尊説法の最も中心をなす教えは法華経であるとして、法華経を解釈した法華文句・法華玄義・摩訶止観の天台三大部(法華三大部ともいう)など多くを講述し、隋代当時の仏教を集大成した。この解釈は、後世の仏教の指針として大きな影響を残した。
最 澄 平安前期の僧。日本の天台宗の開祖で、号は伝教大師(でんぎょうだいし)。767年(神護景雲元年)滋賀郡古市郷(大津市)で生まれ、19歳のころ奈良・東大寺戒壇院で受戒したが、腐敗した奈良仏教に絶望して比叡山に登り、788年(延暦7年)現在の延暦寺の起源となる一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創建。804年、中国の唐に渡り、翌年帰国し、天台宗を開く。
 822年(弘仁13年)56歳で比叡山中道院にて入寂。伝教大師(でんぎょうだいし)の大師号は没後贈られ、大師号のはじまり。
 2001年11月23日、家内とともに比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に行った。往きはJR京都駅前から57系統のバスで延暦寺バスセンターまで1時間余り。帰りは比叡山山頂から叡山ロープウェイとケーブルカーを乗り継いで八瀬(やせ)まで下った。

延暦寺

 延暦寺は天台宗の総本山で、標高848m、東山三十六峰の北端に当たる比叡山の山頂から東側斜面にかけて、かつては三塔十六谷三千坊といわれた大寺である。山号は比叡山。延暦寺という名の建物はない。
 開祖は、伝教大師(でんぎょうだいし)と呼ばれる最澄(さいちょう)で、約1200年前の788年(延暦7年)、京の東北に位置する比叡山に自ら刻した薬師如来を安置した小堂一乗止観院(いちじょうしかんいん)を営み、比叡山寺と名付けた。
不動明王二童子像

不動明王二童子像

 延暦寺の名前は年号を寺名としたもので、823年(弘仁14年)に嵯峨天皇よりその名を勅賜(ちょくし)された。
 その後 最澄は唐に渡り修行して1年後に帰国、天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂(こんぽんちゅうどう)と改めた。 これが天台宗の本堂になり、中枢伽藍となった。
延暦寺最古の千手観音

延暦寺最古の千手観音

 805年、桓武天皇(かんむてんのう)の勅願により、平安京の鬼門 (東北の方向) を守る鎮護国家の祈祷(きとう)道場として規模も整えられ、繁栄した。
 最澄以後比叡山で多くの名僧が修行し、鎌倉新仏教の祖師といわれる浄土宗の法然(ほうねん)、浄土真宗の親鸞(しんらん)、禅宗の栄西(えいさい)・道元(どうげん)、日蓮宗の日蓮(にちれん)など日本仏教を代表する高僧・名僧を多数輩出した。

波乱の歴史

 しかし、この間、南都(奈良)・北嶺(比叡山)の争い、山門派(延暦寺)・寺門派(園城寺)の争いなど僧兵の激しい争いが繰り返され、堂塔も焼失したが、その都度復興した。
 戦国時代には、比叡山が越前朝倉氏に荷担したため、1571年(元亀げんき2年)、織田信長の叡山焼き討ちが行われて全山が焼亡し、数千人の僧徒が殺戮される歴史的大事件があった。

 しかし、その後、豊臣秀吉や徳川家康によって延暦寺は復興。 特に家康のブレーンであった天海僧正は、天台座主として本格復興と天台寺院の拡大に大きな力を尽くした。

 近くは明治の廃仏毀釈があるが、その波にも飲み込まれることなく、伝統を守り続けて来た。
 一宗を越えたその普遍的な存在ゆえに世界宗教サミットの会場にも選ばれ、1994年(平成6年)には、古都京都の文化財を保有する地域の一つとして世界文化遺産に指定された。

広大な寺域

 近江、山城二国にわたる広大な山上の寺域は、三塔(東塔 とうどう、西塔 さいとう、横川 よかわ)十六谷に分かれる。東塔(とうどう)は、東・西・南・北・無動寺の5谷より成り、最も早く開かれた寺域で、一山の本堂である根本中堂をはじめ、大講堂、戒壇院、文殊楼、総持院、浄土院(最澄の所)、無動寺等がある。
 西塔(さいとう)は、東・北・南・北尾・南尾の5谷より成り、834年(承和1年)円澄(えんちょう)が西塔院を開創したことに始まる。釈堂を中心に、相輪(そうりんとう)、法華堂・常行堂の2堂(にない堂)、宝幢院(ほうどういん)等がある。
 横川(よかわ)は、般若・解脱・兜率(とそつ)・樺尾(かぼう)・戒心・飯室(いいむろ)の6谷より成り、829年(天長6年)、円仁(えんにん)が首楞厳院(しゅりようごんいん)を開いたことに始まり、横川中堂(首楞厳院)、四季講堂、恵心院等がある。
 これらの堂舎は、寛永期もしくはそれ以後の再建で、もと三千と号した坊舎も、今は百を数えるに過ぎない。
 古来、山僧の多くは山上に住まず、東西坂本と洛中に里坊(さとぼう)を有したが、今では主として東坂本(大津市坂本)に集住し、ここには最澄生誕地と伝える生源寺、座主の住坊である滋賀院門跡をはじめ多くの住院がある。

東 塔

 延暦寺バスセンターの奥に東塔(とうどう)への入口がある。境内に入るとすぐ左に国宝殿がある。中に入ってみると、殆どの展示物が重要文化財で国宝の展示は少ない。
 国宝殿を出ると、参道の両側に比叡山が生んだ名僧の絵や伝教大師の生い立ちを説明したボードが並んでいる。
 このなだらかな登り坂の突き当たりに「照千一隅此則国寶(一隅を照らす、これ国宝なり) 」の石塔が建っている。 この 「一隅を照らす」 は最澄の聖語として、各地の天台寺院で必ず目にするものである。
02

大講堂

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梵鐘

大講堂

 左手に大講堂がある。僧侶が法華教の講義を聴いたり、お互いに問答して勉強する学問修行の道場だ。本尊は大日如来で、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などの等身大の尊像が安置されている。
 以前の大講堂は1956年(昭和31年)に焼失し、その後、山麓にあった讃仏堂を移築したもので、見た目にも新しい建物である。

鐘 楼

鐘楼(開運平和の鐘)

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 大講堂の前庭に鐘楼があり、開運平和の鐘と呼ばれ、参拝者が自由に鐘を突くことができる。

元亀の法難

 1571年(元亀げんき2年)、岐阜と京の間に位置する浅井氏の攻伐にあたり、信長は叡山に中立を要請したが、叡山は大檀那(おおだんな 有力な檀家)である浅井氏への裏切りを拒否した。
 9月12日早朝、大講堂前の梵鐘が乱打された。鐘楼からの乱打の音は一山の異変を表すものである。こうして信長による延暦寺焼討ちが始まった。延暦寺ではこれを「元亀(げんき)の法難」と呼んでいる。
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文殊楼

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 鐘楼のそばの細い坂道を下ると、延暦寺の事務所などがある広場に出る。左の石段を下ると、根本中堂(こんぽんちゅうどう)に至る。 

智慧の文殊楼

 根本中堂の正面の急な石段を登り詰めたところに、文殊楼(もんじゅろう)がある。古来、本坂を登った参詣者は、ここをくぐり、根本中堂に心を休めたという。比叡山の総門の役目を果たす重要な楼門である。

 868年(貞観8年)慈覚大師が常座三昧の修行を行う道場として建立されたのに始まり、1642年(寛永19年)徳川家光の再建による重層和唐の混合様式の建物である。

 上層には文殊菩薩を祀り、智慧の文殊として全国の学生・生徒たちが絵馬札に祈願をこめて利益を受ける。

根本中堂

 延暦寺の中枢伽藍である国宝・根本中堂(こんぽんちゅうどう)は、奈良の東大寺大仏殿、吉野の蔵王堂に次いで日本で三番目に大きい木造建築である。間口11間・奥行き6間の入母屋造りで、 回廊を三方に巡らした銅板葺きである。
 巨木の森に包まれた回廊や堂舎の巨大さは、見る者を圧倒する。
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根本中堂

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不滅の法灯 元亀の法難により根本中堂は灰燼に帰したが、この時不滅の法灯も消えている。しかし、山形の立石寺(りっしゃくじ 山寺)に根本中堂から分灯した法灯があったので、不滅の法灯が継続できたという。
 森閑とした堂内には、最澄が自ら彫り上げたという本尊・秘仏薬師如来が安置され、その前には、 開創以来1200年余、灯の消えたことがないという不滅の法灯が神秘に揺らめいている。
 この須彌壇のある内陣は、参拝者の入る中陣や外陣より低い位置にあり(天台様式)、仏像や法灯が参拝者の目の高さに来るようになっているのは、「仏も人もひとつ」という仏教の仏凡一如の考えを現しているという。
延暦寺 根本中堂

延暦寺 根本中堂

延暦寺 不滅の法灯

延暦寺 不滅の法灯

世界遺産シリーズ第4集郵便切手(2001年8月発行)

 東塔の中心となる根本中堂は、788年(延暦7年)最澄がこの地に草庵を結んだ場所とされる。法然、親鸞、日蓮、栄西、道元などがここで学んだ。
 やがて、その強大な力を恐れた織田信長が1571年(元亀2年)全山を焼き討ちにし、延暦寺は根本中堂をはじめ大半の建物を焼失する。現在の建物は、1642年(寛永19年)、徳川家光が復興したものである。
根本中堂4景
根本中堂 A 根本中堂 B 根本中堂 C 根本中堂 D

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法華総持院東塔

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法華総持院東塔

 最澄は「一隅を照らす」という教えを示し、全国6ヵ所に宝塔を建て、国土と国民を護ることを発願した。
 その中心宝塔として比叡山に建立された東塔は、元亀の法難により灰燼に帰し、以来再建されなかったが、1980年(昭和55年)、400年ぶりに建築当時を偲ぶ雄大な姿を老杉の間に現した。高さ30m、木造檜造り、重層多宝塔。
上層には仏舎利と法華経千部、般若心経50万巻、千万遍の念仏名号が納められ、下層には胎蔵界大日如来のほか5仏が安置されている。

阿弥陀堂

阿弥陀堂

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 阿弥陀堂は、1937年(昭和12年)比叡山開創1150年を記念して建立。方5間の大きさで鎌倉初期の手法をこらした純和様式がとられ、内陣天井廻りは美しい極彩色を施し、本尊は丈六の阿弥陀仏座像が祀られている。
  比叡山延暦寺1/2 比叡山延暦寺2/2 夏の叡山延暦寺 和田義男

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