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和田義男

 旅紀行日本の花

2006年4月23日改訂

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♪ 花

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隅田川上り下りの花見船  北舟

   2006年4月23日作成

中央大橋とリバーシティ21の桜

中央大橋とリバーシティ21の桜(隅田川/東京都墨田区)
東京桜めぐり

隅田川

はじめに

 2006年4月1日(土)、東京の桜は満開を迎え、絶好の行楽日和となったこの日、家内と共に、JR青梅線河辺(かべ)駅前発のクラブツーリズムが主催するツアーバスに乗って、終日都内の桜の名所めぐりをした。

隅田川すみだがわ

クルーズ
 最初は、東京港・日の出桟橋から水上バスに乗り、浅草の隅田公園まで、40分ほどの隅田川クルーズを楽しんだ。乗船したのは長さ32m、総トン数143ton、旅客定員560名の「竜馬(りょうま)」で、真っ赤な船内とフラットな船体が印象的。船名は東京に関係した偉人に因むシリーズの1号船で、他に「海舟」や「道灌」がある。

東京港日の出客船のりば

東京港日の出客船のりば

隅田川すみだがわ

 隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川*から分岐し、石神井川(しゃくじいがわ)や神田川(かんだがわ)などの支流河川と合流し、最後は東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。
*荒川:かつては現在の隅田川が荒川で、下総国(しもうさのくに)と武蔵国(むさしのくに)の国境であった(当時の隅田川は荒川下流部の俗称)。現在の荒川は、洪水を防ぐために明治末期から昭和初期にかけて建設された荒川放水路で、昭和40年(1965)の政令で荒川となり、以前の荒川は正式に隅田川となった。
 古くは承和2年(835)の太政官符に「住田河」と記されており、「宮古川」などとも呼称された。江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれた。また、大川西岸、特に吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端(おおかわばた)と称した。
 日の出桟橋の対岸は、東京港の海の玄関口・晴海埠頭(はるみふとう)。独立行政法人航海訓練所の練習船・銀河丸(全長116m、総トン数 6,185ton、2004年6月竣工)がスマートな船体を休ませていた。

対岸の晴海埠頭

対岸の晴海埠頭

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竜馬りょうま

による水上クルーズ
 竜馬は満船状態だったが、何とかアッパーデッキの右前面に撮影場所を確保できた。正面の橋は勝どき橋。右に見える赤い船は、中央区勝どき五丁目の東京消防庁・臨港消防署に所属する5隻の消防艇の1番船みやこどり。総トン数119ton、長さ30m、最高速力21k't、放水量 21,000リットル/分 1基 15,000リットル/分 2基。

隅田川に入る水上バス「竜馬」

隅田川に入る水上バス「竜馬」

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勝どき橋かちどきばし

 中央区の勝どき橋(勝鬨橋)は、隅田川に架かる最下流橋で、晴海通り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。日本では珍しい可動橋(跳開橋)で、昭和45年(1970)まで橋の中央部が上下に開閉していたが、現在は休止し、給電も行われていない。
 先日、観光資源として再び開閉させようとの動きがあり、石原知事も賛同していると報道されたが、機械部等の復旧に莫大な費用(約10億円)がかかることや、大型船の通行要請がないこと、道路交通を遮断する弊害があることなどから、実現の見通しはたっていない。 橋長 246m 幅員 22m 参考:勝どき橋Report

1 築地(左)と勝どき(右)を結ぶ勝どき橋(隅田川最下流橋)

築地(左)と勝どき(右)を結ぶ勝どき橋(隅田川最下流橋)

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佃大橋つくだおおはし

 中央区の佃大橋は、隅田川最後の渡船場として320余年続いた「佃の渡し*」の位置に戦後初めて隅田川に架橋されたもの。隅田川西岸(左)は北が中央区湊三丁目、南が築地明石町。東岸(右)は中央区佃一丁目と月島一丁目を分かつ。地下(川底トンネル)を東京メトロ有楽町線が走る。橋長 476.3m 幅員 25.2m

 白い支柱は上流の中央大橋のもの。左ののっぽビルは、東京新阪急ホテル(手前)と聖路加タワー(奥)。
*佃の渡し:正保2年(1645)に開設された船松町(現・湊三丁目付近)と佃島を結ぶ渡し舟。昭和39年(1964)に佃大橋が完成したため廃止された。

2 「佃の渡し」の代わりに架けられた佃大橋と桜

明石町(左)と月島(右)を結ぶ佃大橋と桜

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中央大橋ちゅうおうおおはし

 平成5年(1993)に完成した中央大橋は、隅田川最新の橋で、八重洲通りを通す。西岸は中央区新川二丁目、東岸は中央区佃一丁目。機能やコスト一辺倒だった昭和の橋とは違い、都市景観やデザインに工夫を凝らした斜張橋である。バブル絶頂期に建造されたこともあって贅沢な造りで、中央区のシンボル「中央大橋」という名に恥じない。橋長 210.7m 幅員 25.0m

3 新川(左)と佃(右)を結ぶ中央大橋とリバーシティ21の桜

新川(左)と佃(右)を結ぶ中央大橋とリバーシティ21の桜

パノラマ写真(2000x880)270KB

超高層マンション

 かつての佃島には中央区の超高層マンション群「リバーシティ21」が建設され、その偉容を誇っている。佃島は埋め立てが進んで広域化し、中央大橋と佃大橋とで陸続きとなり、佃島という呼称は消滅している。
 写真右下の灯台は、慶応2年(1866)、沖行く船のために石川島の人足寄場奉行が人足たちを使って建設した常夜灯・石川島灯台のモニュメント。

 隅田川上り下りの花見船  北 舟 

リバーシティ21の桜

リバーシティ21の桜

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佃島のリバーシティ21

 リバーシティ21は、水戸藩主徳川斉昭により創設された石川島造船所(現IHI)の跡地に東京都のウォーターフロント開発計画の一貫として造られた街で、超高層のタワーマンション十数棟が建つ最先端の住空間である。

中央大橋をくぐる水上バス

中央大橋をくぐる水上バス

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永代橋えいたいばし

 河口から数えて四番目の永代橋(えいたいばし)は、永代通り(東京都道・千葉県道10号東京浦安線)を通す。西岸は中央区新川(しんかわ)一丁目、東岸は江東区永代(えいたい)一丁目。地下に東京メトロ東西線が走る。

4 新川(左)と永代(右)を結ぶ永代橋

新川(左)と永代(右)を結ぶ永代橋

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 元禄11年(1698)現在の場所より150m上流に架けられた当時、東岸の佐賀町付近(現・佐賀)は永代島と呼ばれていた。橋の名はそれから取ったという説がある。赤穂浪士が吉良邸(現・両国三丁目の本所松坂公園)に討ち入ったあと、永代橋を渡って泉岳寺に向かったといわれる。明治30年(1897)に現在の場所に移され、関東大震災で大破した後、昭和3年(1928)に現在の橋が架けられた。 橋長 184.7m 幅員 25.0m

永代橋をくぐる水上バス「竜馬」

永代橋をくぐる水上バス「竜馬」

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佃 島つくだじま

   永代橋の下流(南)はかつての佃島に建つリバーシティ21と名付けられた高層マンション群が聳える。佃煮で知られる佃島は、元々隅田川の河口に自然に出来た洲(す)で、家康は幕府を江戸に置くに当たって、本能寺の変の際に世話になった摂津国(せっつのくに)佃村(現在の大阪市西成区)の漁民約30名を江戸に呼び寄せ、漁業権を与えて住まわせたのが始まりで、佃島と呼ばれるようになった。

かつての佃島に立ち並ぶ高層ビル群 (2005年8月14日永代橋より撮影)

かつての佃島に立ち並ぶ高層ビル群

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隅田川大橋すみだがわおおはし

 昭和54年(1979)に架けられた隅田川大橋は、葛西橋通り/水天宮通り(東京都道475号永代葛西橋線)を通す。西岸は中央区日本橋箱崎町、東岸は江東区佐賀一丁目。地下に東京メトロ半蔵門線が走る。
   隅田川唯一の二層式の橋は、首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が完成し、その翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通した。機能性重視の設計デザインになっていることもあり、本来対になって設計されていた上流の清洲橋と下流の永代橋の中間に壁のような橋ができたために、双方の橋からお互いを見通せなくなってしまい、景観破壊として悪名が高い。 橋長 385.3m  幅員 30.0m(4車線)

5 日本橋箱崎町(左)と佐賀(右)を結ぶ二層式の隅田川大橋

日本橋箱崎町(左)と佐賀(右)を結ぶ二層式の隅田川大橋

清洲橋きよすばし

 河口から6番目の清洲橋は、清洲橋通り(東京都道474号浜町北砂町線)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は、公募により、建設当時の東岸・深川区住町と西岸・日本橋区中町から採られた。
 この橋ができるまでは 「中洲の渡し」があったという。関東大震災後の復興事業で、ドイツ・ケルンの大吊橋を手本に昭和3年(1927)に完成。永代橋が「男性的で重量感あふれる」のに対し、清洲橋は「女性的で優美な雰囲気」といわれる。 橋長 186.3m 幅員 22.0m

6 日本橋中洲(左)と清澄(右)を結ぶ藍色の清洲橋

藍色の清洲橋

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新大橋しんおおはし

 新大橋は、新大橋通り(東京都道・千葉県道50号東京市川線)を通す。西岸は中央区日本橋浜町二丁目・三丁目、東岸は江東区新大橋一丁目。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。 橋長 170.0m  幅員 24.0m
 元禄6年(1693)に現在地よりやや下流に木の橋が架けられ、当時、現在の両国橋を 「大橋」と呼んでいたため、こちらを「新大橋」とした。その後、明治45年(1912)に現在地に鉄橋が架けられ、昭和52年(1977)に現在の斜張橋に架けかえられた。橋の東岸には松尾芭蕉宅があり、芭蕉がこの橋の句*を残している。
*この橋の句:当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が新大橋を詠んだ。工事中に「初雪やかけかゝりたる橋の上」、完成後に「みな出でて橋をいただく霜路哉」、「ありがたや戴いて踏む橋の霜」。
 隅田川の橋には珍しくイルミネーションに間接照明を使い、夕暮れには黄色い柱が暖かい光で照らし出される。

7 日本橋浜町(左)と新大橋(右)を結ぶ新大橋

日本橋浜町(左)と新大橋(右)を結ぶ新大橋

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首都高速(7号小松川線)高架橋

 下流の新大橋と上流の両国橋(写真下)の間に、日本橋浜町と両国を結ぶ首都高速7号小松川線の高架橋が架かる。何とも無粋な橋であるが、この橋を隅田川の橋に数えている文献が見あたらない。実在している以上はカウントすべきで、河口から8番目の橋となる。7号小松川線は昭和46年(1971)に開通している。

8 日本橋浜町と両国を結ぶ首都高速7号小松川線高架橋

日本橋浜町と両国を結ぶ首都高速7号小松川線高架橋

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