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 旅紀行日本の祭り

2010年1月31日改訂

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♪わっしょい〜村祭り〜お江戸日本橋

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神輿舁茜襷の奉仕隊  北舟
Portable shrine carriers, supporters of red sashes.

2008年5月19日制作

神社を出発する宮元子供中神輿

神社を出発する宮元子供中神輿(鐵砲洲稲荷神社/東京都中央区)

 
鐵砲洲稲荷神社神紋   鐵砲洲稲荷神社   鐵砲洲稲荷神社神紋
 

江戸っ子!鐵砲洲大祭

子供神輿

 

子供神輿連合渡御こどもみこし れんごうとぎょ

 5月4日(日)午後、子供神輿の連合渡御が行われた。午後2時から神社境内で行われる連合渡御出発式にあわせて、各町会の子供たちが担ぐ中小神輿が次々と宮入りしてきた。
子供神輿/入船二丁目

子供神輿/入船二丁目

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湊一丁目と二丁目からなる宮元には、中・小2基の神輿があり中神輿は高学年用小神輿は低学年用である。

宮元の子供小神輿

宮元の子供小神輿

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宮入する宮元子供中神輿

宮入する宮元子供中神輿

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宮入した入船一丁目子供神輿

宮入した入船一丁目子供神輿

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子供たちの参拝

子供たちの参拝

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神社を出発する宮元子供中神輿

神社を出発する宮元子供中神輿

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  神輿舁茜襷の奉仕隊  北舟 

みこしかき あかねだすきの ほうしたい

Portable shrine carriers, supporters of red sashes.

宮元中神輿を担ぐ子供たち

宮元中神輿を担ぐ子供たち

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明石町の

聖路加せいろか

国際病院
 明石町には巨大な十字架のタワーを持つ財団法人・聖路加国際病院がある。この病院名は、使徒パウロの協力者の一人で、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされるルカの漢字表記からとられている。
 そのため、正しくは「せいるか」というが、「せいろか」としか読めないので、職員も通称にあわせているという。ワープロソフト一太郎では「せいろか」も「せいるか」も共に聖路加と変換される。
 種々のメディアで高い評価を受けており、宮家、皇族の縁者、文化人、財界人などが利用する病院としても有名。戦前、旧病棟の建設に皇室から多額の資金が下賜されるなど、歴史的に皇室との関係が深い。財団法人としての初代理事長は渋沢栄一が勤めた。
十字架の立つ 聖路加せいろか 国際病院(中央区明石町)

聖路加国際病院(中央区明石町)

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トイスラー記念館

 聖路加国際病院の敷地には、ひっそりと佇む瀟洒な洋館が建っている。病院の創設者ルドルフ・トイスラー博士が使っていた宣教師館で、隅田川畔に建っていたのを昭和63年(1988)に解体し、創建当時の施工技術や構造を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いて、平成10年(1998)に聖路加国際病院の敷地内に移築復元された。 手入れの行き届いた庭があり、小川も流れている異空間である。
トイスラー記念館/聖路加国際病院

トイスラー記念館/聖路加国際病院

 
浅野内匠頭邸址あさのたくみのかみていあと
 聖路加国際病院のそばに浅野内匠頭邸址の石碑がある。播州赤穂(ばんしゅうあこう)(兵庫県) 5万石の赤穂藩・浅野家の江戸上屋敷があったところで、西と南は築地川に面し、広さは8,900坪余りあったという。
 元禄14年(1701) 3月14日、藩主・浅野長矩(あさの・ながのり)が江戸城中・松の廊下で吉良義央(きら・よしひさ)に刃傷に及び、 即日切腹となり、江戸屋敷や領地などは全て取り上げられて浅野家は断絶した。
 城代家老・大石良雄を中心に した家臣の仇討は有名で、 蔓延元年(1748) の大坂での浄瑠璃 「仮名手本忠臣蔵」を皮切りに数々の芝居、映画にこの事件を描いた[忠臣蔵」が取り上げられ、庶民の根強い人気を得ている。
浅野内匠頭邸址あさのたくみのかみていあと

浅野内匠頭邸址

 

鐵砲洲稲荷神社の門前道の一路東側の道は吉良邸討ち入り後赤穂義士が通った道として語り継がれている。

吉良邸討入後赤穂義士が通った道(中央区湊一丁目)

吉良邸討入後赤穂義士が通った道(中央区湊一丁目)

 

慶應義塾けいおうぎじゅく

発祥の地
 聖路加国際病院のそばに「慶應義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」という二つの石碑があり、日本近代文化事始めの地として紹介されている。この地は明和8年(1771)豊前国(ぶぜんのくに)中津藩(なかつはん)(大分県中津市)の医師・前野良沢(まえの・りょうたく)らがオランダ語に翻訳されたドイツの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を初めて読んだ由緒ある場所だという。
日本近代文化事始の地(中央区明石町)

慶應義塾発祥の地

蘭学の泉はここに

日本近代文化事始の地(中央区明石町)

 

慶應義塾けいおうぎじゅく

発祥の地
 慶應義塾の起源は、安政4年(1858)に福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾*(かじゅく)に由来する。その場所がこの石碑より北東の聖路加国際病院の構内に当たるという。
*家塾(かじゅく):学識者が自宅を学舎として門弟を教育するために開設した教育施設。
慶應義塾発祥の地

 

中央区立あかつき公園

 明石町には、新緑が瑞々しい中央区立あかつき公園がある。霧のような間欠噴水が爽やかさを演出している。この公園の一角に、中央区教育委員会が建てたシーボルトの胸像がある。
中央区立あかつき公園(中央区明石町)

中央区立あかつき公園(中央区明石町)

 

シーボルト胸像

 シーボルトの胸像のそばに、中央区教育委員会が石碑を建立した趣意書が掲げられている。以下全文。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)は、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。

 同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。

 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。
シーボルト胸像/あかつき公園

シーボルト胸像/あかつき公園

 

隅田川すみだがわ

 隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、新河岸川(しんがしがわ)・石神井川(しゃくじいがわ)・神田川(かんだがわ)などの支流河川が合流して東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。古くは承和2年835)の太政官符に「住田河」と記されており、「宮古川」などとも呼ばれていた。
隅田川すみだがわ 大川端おおかわばた リバーシティ21

隅田川と大川端リバーシティ21

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   江戸時代に入ると、浅草寺(せんそうじ)そばの吾妻橋(あづまばし)周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれた。大川右岸、特に吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端(おおかわばた)といわれた。元・佃島に建つ高層マンション群は大川端リバーシティ21と称しているが、当時は佃島であって、大川端ではない。写真上の緑の橋は、明石町から隅田川に架かる佃大橋である。近年は、旅客を満載した水上バスの往来が多い。
佃大橋つくだおおはし のたもとにある 佃島渡船場跡つくだじまとせんばあと (中央区湊三丁目)

佃大橋のたもとにある佃島渡船場跡(中央区湊三丁目)

佃島渡船つくだじまとせん の記念碑

佃島渡船の記念碑

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