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 旅紀行日本の祭り

2008年01月28日改訂
祭囃子メドレー

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2003年5月24日制作

神輿宮入(東京・神田神社)

神輿宮入(東京・神田神社)

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JR御茶ノ水駅と神田川

JR御茶ノ水駅と神田川

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神田神社

流れ三つ巴

神田神社の神紋

 社伝によると730年(天平2)武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町)に大己貴命(おおなむちのみこと 大国主命/大黒様)をまつったのが当社のはじまりという。
 やがて天慶の乱(939〜940)に敗れた平将門の首が付近に葬られると天変地異の怪異が続き、それを知った北条時宗の真教上人が将門の祟りを鎮め、延慶2年(1309)には平将門命(たいらのまさかどのみこと)を祭神として合祀した。
 徳川家康が江戸に入ると、翌1591年(天正19)江戸内に30石の神領を寄進した。1603年(慶長8)江戸城改築に伴い神田台に、さらに1616年(元和2)江戸城の表鬼門にあたる現在地(千代田区外神田)に移転した。徳川秀忠はこの神田明神を武州の総社とし、城下の総鎮守として篤い崇敬を寄せた。
 当時の神田祭は天下一の祭礼だとして、天下祭(御用祭)とも呼ばれ、城内はもとより、江戸を挙げての祭礼として盛大に執り行われた。
 1872年神田明神を神田神社と改称、1874年常陸の大洗磯前(いそざき)神社の祭神少彦名命(すくなひこなのみこと 恵比寿様)の分霊を勧請(かんじょう)、相殿(あいどの)神として祀った。社殿は1996年から平成の御造替(ごぞうたい)事業により2002年竣工。随神門も極彩色に蘇った。 神田明神
 神田祭は、現在、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭のひとつに数えられている。また、浅草神社三社祭日枝(ひえ)神社山王祭とともに東京三大祭のひとつでもある。
 2003年5月11日(日)、JR御茶ノ水駅から神田神社に行った。神田川に架かる聖橋(ひじりはし)を渡ると5分ほどで大鳥居に着く。
 南こうせつの「神田川」で知られる神田川は、東京都の中央部を東西に流れて隅田川に合流する川で全長25.3km。
 御茶ノ水駅付近は、江戸幕府による人工河川で、集中豪雨による水の被害をたびたび受けたという。

 東京都心に初夏の訪れを告げる神田祭は、この日クライマックスを迎え、千代田区神田、秋葉原、日本橋の氏子町会108町から大小200基の神輿が神田神社に宮入(みやいり)したあと、終日町内を練り歩き、20万人の人出で賑わった。

 大鳥居をくぐる町神輿

 神輿は、大鳥居の向こうに見える随神門(ずいしんもん 随神[社殿や社地を守る神]が安置されている神門)から境内に入り、御社殿でお祓いを受ける。
 大鳥居をくぐる町神輿

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 大鳥居入口の指揮所の合図で神輿が宮入するが、参道は群衆で埋まり、遅々として進まない。108の氏子町会の神輿宮入は、一日がかりの難作業である。

随神門の獅子飾り

随神門の獅子飾り

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境内案内図

神田神社境内案内図

資料

裸のお祭り男

 随神門にふんどし一丁の男がいた。町中で裸になって神輿を担ぐ氏子も境内に入るときは半纏を着用する決まりだが、この男だけは例外のようだ。
 聞くと神輿を担ぐ名物男で、肩のもの凄い瘤はそれを証明している。半纏で隠してしまうのは惜しいので、祭り主催者も裸を黙認しているのだろう。
ふんどし一丁のお祭り男

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手古舞の女性たち

手古舞の女性たち

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 神輿の先導役を務めるのが手古舞(てこまい)の女性たち。特に、中神田連合の神輿は、男髷(おとこまげ)を結った手古舞姿の女性達が先導する。
 手古舞は、祭礼の踊り舞台で祭囃子に合わせて踊る舞踊のことであるが、神輿や山車を先導する男装の女性として知られる。 手古舞
 伊勢袴・足袋・草鞋を履き、男髷を結い、片手に金棒を持った片はだぬぎの手古舞姿は、清元の歌舞伎舞踊「神田祭」の舞台で見ることができる。

神輿宮入

神輿宮入

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 随神門をくぐって、次々と町神輿が宮入してくる。白地に大和町と書かれた扇子を翳す肩車の娘さん。江戸っ子の真骨頂か、ノリノリである。
扇子の娘

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 頭垂れ御鈴祓の神田祭  北舟 
福鈴と打出の小槌でお祓い

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御社殿の町神輿

 一本締をするという合図を送る指揮者

御社殿の町神輿

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福鈴と打出の小槌でお祓い

 御社殿前に到着した氏子たちは、2礼2拍1礼の参拝をしたあと、全員頭を垂れ、恵比寿様と大黒様から福鈴と打ち出の小槌でお祓いを受ける。

一本締

 その後、地区の総代より挨拶があり、一本締で締める。

 イヨー、ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨイ!

一本締

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 「良い」に通じる3・3・3・1の手拍子が境内に響く。手締(てじめ)のあと、神輿一行は随神門手前の脇道から町内に繰り出して行く。
 神前に一本締の祭かな  北舟 
 手締の中にイヨー、パン!と1拍で締めるものがある。一本締というので、てっきりこちらの方かと思っていたら、そうではなかった。1拍で締めるには、関東一本締といわなければならない。
 翌週に催された浅草・三社祭でも同様で、江戸っ子の一本締は10拍であることを知った。
 手締といえば、テレビで中村梅之介扮する「遠山の金さん」。「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨイ、はっ、めでてえな!」の名セリフを残した。
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 御祓を受けて繰り出す大神輿  北舟 

町へ繰り出す神輿

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お囃子屋台

 祭囃子の創始は江戸時代の享保年間(1716〜1736)武州葛飾群金町村の香取大明神(現在の葛西神社)の神主、能勢環(のせたまき)が村内の若者を集めて敬神の和歌にあわせて音律工夫した和歌囃子を教えたのが始まりといわれる。
お囃子屋台

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 その囃子に獅子や滑稽面の踊りを付随させ、葛西囃子となり、やがて神田、目黒などに広まったという。
 神田囃子は、大太鼓、締太鼓、鉦、笛で構成され、屋台・昇殿・鎌倉・仕丁舞・神田丸・亀井戸・麒麟・葛鼓などの曲目が演じられる。

江戸風情・神田囃子

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羽衣

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大きな飾り傘を回す東神田睦

大きな飾り傘を回す東神田睦

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雅な羽衣山車

 江戸時代の神田祭では37台もの山車(だし)が巡行したが、現在は神輿が中心となっており、山車は再現されたものなど3台が神輿の渡御にあわせて巡行するに過ぎない。
 当時の江戸っ子は、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と評したという。
 神田松枝町は、現在ほとんど姿を消してしまった山車を今も大切に守り伝えている。
雅な羽衣山車

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 羽衣山車(はごろもだし)は、昭和13年(1938)に神田・松江町町会が造った。戦時中は疎開していたため焼損を免れた。
 町名の「松江」と能の三保の松原の天女伝説「天女の羽衣」をひっかけたものだという。
 山車は、単層囃子台型で、人形のみがカラクリで上下する自慢の構造である。見送幕の代わりに杉戸になっており、後側には大太鼓が置かれ、後から歩きながら叩けるようになっている。
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