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和田義男

 旅紀行ジャパン

2009年7月29日改訂

今 日

昨 日

♪真鶴・手古・木遣りくずし

 

腕守腰に自慢の秋祭   北舟

 
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The men proudly wearing arm charms
on their waist for the autumn festival.

2009年7月23日制作

灘のけんか祭り

灘のけんか祭/松原八幡神社(兵庫県姫路市)

世界を撮す遊び人
1,000万アクセス突破記念!
和田義男講演会

祭3

神田祭

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   平成15年(2003)5月中旬神田祭(かんだまつり)を取材した。この年は徳川家康が慶長8年(1603)に江戸幕府を開いてから丁度400年になる節目であった。神幸祭の三ノ宮(平将門命)鳳輦の後ろには、日本橋(にほんばし)が見えている。神田明神(神田神社)は江戸の中心地にあり、かつては山車祭として山王祭と交互に江戸城内に乗り込む天王祭(てんのうさい)を催行していた。  
江戸時代に安藤広重が描いた日本橋 江戸三大祭の「神田祭」

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  ▲▼ 神幸祭の翌日は連合渡御が行われた。東京都心に初夏の訪れを告げる神田祭は、この日クライマックスを迎え、千代田区神田、秋葉原、日本橋の氏子町会108町から大小200基の神輿が神田神社に宮入(みやいり)したあと、終日町内を練り歩き、20万人の人出で賑わった。  

褌一丁の名物男/隋神門

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  ▲▼ 神田祭は褌禁止などという野暮なことは云わない。白褌だけでなく、色柄の褌も散見され、入墨姿も見られる。さすが天下の神田祭だと思う。随神門を通過すると、褌一丁の名物男がいた。神輿の担ぎ蛸を見せるために半纏を着用していないのであろう。神田祭では、境内では半纏が義務づけられているが、彼だけは黙認されているようである。  

神田祭の江戸っ子たち

坂越の船祭/大避神社(兵庫県赤穂市坂越)

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  ▲▼ 兵庫県赤穂市に鎮座する大避(おおさけ)神社の坂越(さこし)の船祭は、かつての水軍の伝統を受け継ぐもので、渡御船団が対岸の御旅所に宮神輿を渡御する海の祭礼である。  
 この船祭では、渡御船団を支援する2隻の伝馬船(てんません)が運航されるが、彼らは白褌に赤い法被を着て船に乗り組み、両舷10本の櫂(かい)を漕いで進む。遠くから赤く見えるので、赤伝馬(あかでんま)と呼ばれている。

水軍の伝統を受け継ぐ赤伝馬

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  ▲ ここでは、神田祭や江戸の多くの祭の常識と違って、神に近づくときには法被を脱いで褌一丁の裸形になり、伝馬船を漕ぐときには赤い法被を着る。法被をはおったまま参拝したり、神輿に近づくことは、失礼なのである。所変われば品変わるで、こゝでは見事に価値観が逆転している。  

褌一丁の夫婦岩注連縄張り神事/二見若宮神社

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  ▲▼ これと同じ価値観を持っているのは山口県下関市に鎮座する二見若宮神社や北海道江差町の厳島神社で、年に一度の注連縄を交換する神事に臨む氏子たちは、斎戒沐浴し、白褌一丁の裸形で神事に当たる。  

褌一丁の瓶子岩注連縄張り神事/厳島神社(北海道江差町)

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質問:この城下町で行われる勇壮な祭とは? 正解:灘のけんか祭

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   ここで二回目の質問。「この城下町で行われる勇壮な祭とは?」 正解は「灘のけんか祭」。ヒントが悪くて正解者がなく、賞品は二回目の抽選会に回した。  
灘のけんか祭

灘のけんか祭

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  ▲ 「ヨーイヤサー」の勇ましいかけ声と太鼓の音が抜けるような秋晴れの空に吸い込まれていく。上気した赤い肌に白い祭り褌をキリリと締め込んだ男たち。神輿がぶつかり屋台が揺れる。21世紀最初の10月15日「灘のけんか祭り」と呼ばれる松原八幡神社秋季例祭の本宮が開かれ、15万人の大観衆が裸の男たちの熱い祭典を見守った。神戸に単身赴任していた私は、姫路の友人・鈴木勝義さんの招待で、家内とともに祭見物に出かけた。  

観衆の面前で死亡事故が発生!

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  ▲ 広畑(ひろばたけ)の練り場(ねりば)三階観覧席に座り、家内と二人で高見の見物をしていた目の前で、白装束の男が神輿から転落し、その上に神輿が倒れて下敷きになってしまった。間もなく救急車で病院に搬送され、祭は何事もなかったかのように最後まで催行されたが、翌朝の神戸新聞で、心臓破裂で死亡したことを知った。  

神輿を破壊する氏子たち

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  ▲ 一の丸・応神天皇、二の丸・神宮皇后、三の丸・比淘蜷_(ひめおおかみ)の三基の宮神輿がぶつかり合う神輿合わせは神輿同士が喧嘩しているようにみえることから、灘のけんか祭と呼ばれるようになったが、毎年交代で同一町会の練子(ねりこ)たちが行うので喧嘩しているわけではない。  
 神輿に丸がついているのは、故事により、神輿を船に見立てたもの。神輿がぶつかるたびに大歓声が轟く。激しければ激しいほど神々は喜ばれ、神意に叶うという。最後は神輿の屋根を蹴破る氏子が現れ、同僚が行き過ぎを諫めた。神輿は毎年修復する前提で造られているので、簡素な構造になっている。

勇壮な八家の屋台

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  ▲▼ 続いて、屋台練りが始まった。屋台は、町神輿のことで、神輿合わせ担当町以外の6ヵ町の屋台が次々に練り場に入り、屋台練りを披露する。勇壮な八家(やか)の屋台は袴姿の二人の長老が担ぎ棒に立ち、指揮棒を持って采配している。  
 すり鉢状の練り場で土煙を上げながら屋台を差す姿に観衆は陶酔する。練り場は裸の男たちが命を燃やす晴れ舞台で、ここで命を落としても名誉の戦死として讃えられる。

男たちの花舞台:八家の神輿練り

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  ▲ 祭の2日間は、灘中と地区内の4つの小学校は、臨時休校となり、市役所の支所も留守番を残して開店休業状態になる。彼らの1年は祭を中心に廻っている。大阪の部長から聞いた話だが、地元出身の課長が灘のけんか祭に参加しないと村八分になるので何としても休暇を取らせて欲しいと願い出たが、忙しいので休暇を認めなかったところ、その日は無断欠勤していたという。彼らは、岸和田だんじり祭と同様に、仕事よりも祭が優先する。勤務評定が下がっても祭が大事なのである。  
 全国的に見ると、このような不利益を避けるため、神社によっては、祭の催行日(祭日)を土日祝日に移行したところもある。宮司によっては、先祖伝来の祭日は絶対に動かせないと現状にこだわる人もいる。私は、旧暦の祭日が新暦の同じ日になった例が多々あったように、祭日は弾力的に運用しても祭の変質にはならないと思っている。しかし、人の価値観は様々で、難しい選択ではある。
褌談義の結末

褌談義の結末

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  ▲ 私の発表した「灘のけんか祭」で、「氏子たちは褌をしている」と書いたところ、地元の若者からメールがあり、「締めているのは泥まわしであって褌ではないので、表現を改めて欲しい」という要望を受けた。相撲まわしや泥まわし、下帯や締め込みと色々あるがそれは褌の種類や別の言い方に過ぎないと説明したが、納得されず、そのやりとりから「褌談義」という作品が生まれた。その若者は、下着の越中褌や六尺褌が褌だというのである。  
 結局、松原八幡神社宮総代会作成の交通規制図に「飲酒運転、免許証不携帯(特に裸フンドシ姿)の運転は絶対にしないで下さい」と書かれていたことが判明し、私の説明が正しいことを分かって頂いた。当たり前!(^^;
 友人の鈴木勝義さんには、氏子たちがしている腕守りをネーム入りでプレゼントして頂き、大いに感動した!

東山・妻鹿・松原・八家四町の屋台練り

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   私はこの祭を見て日本人のDNAには何か熱くなるものが擦り込まれているように思われ日本中の裸祭を激写して男たちの熱気や感動を世界中に紹介しようと決意し、「日本の裸祭り」シリーズをスタートさせた。現在95集を数え、名実ともに日本一の裸祭りサイトとなった。  
 「日本の裸祭り」のアクセスが他の作品よりも10倍も多い超人気サイトとなっているのは、パックツアーなどが無いために取材が難しく、これだけの感動を伝えるサイトが他に存在しないからだと自負している。
 裸祭は、ハンダコやパンツなどに変質してしまったものも多いが、そのような祭を世界に紹介するのは恥ずかしくてカメラを向ける気にはなれない。結局、Wa☆Daフォトギャラリーに掲載される裸祭は、裸褌祭(はだか・ふんどし・まつり)だけということになってしまうが、決して変な趣味があって褌にこだわっているのではない。
 高温多湿の気候風土で育った胴長短足の日本人には開放感あふれる和服と褌が一番似合っている。それが日本人のアイデンティティ(日本人らしさ / 自己同一性)のひとつであり、大切にしたい文化だと思う。

★☆★彡

 リオのカーニバルを例に出すまでもなく、西洋女性のビキニ・スタイルやTバック姿を見れば、裸が不謹慎だというのはキリスト教伝道師たちの狭い価値観であったことが分かる。彼らは自らの傲慢さを反省し、現在では、未開の地の裸族たちに衣服を着せて裸文化を破壊したことが誤りであったことを認め、民族のアイデンティティ( 自己同一性)を尊重するようになった。
 明治維新の後、日本の裸文化を恥と考えて衣服をまとわせた明治政府の罪は小さくない。西洋文化にスポイルされてしまった日本の現状を正してゆくためにも、これからも裸祭りシリーズを充実させてゆきたい。
 NHKや民放テレビの安っぽい時代劇では、侍や町人があり得ないハンダコ姿で登場するが、時代考証のしっかりした監督の映画などでは、全て褌姿となる。マスコミもそろそろ明治政府のような過ちを是正されては如何だろうか。

若宮八幡裸祭(大分県豊後高田市)

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   若宮八幡神社裸祭は地元では岡山・西大寺会陽の裸祭と山口防府天満宮の裸祭と並ぶ日本三大裸祭の一つだという。「その意気やよし!」と感じた私は、平成18年(2006)11月3日(金)朝5時起きして、羽田空港から空路大分空港に行き、ホームページにお便りを頂いて知り合った清原浩さんや川組後援会会長の三谷一俊さんらの全面支援を受け、川組後援会の専属カメラマンの立場で密着取材することができた。  

気勢を上げる輿丁たち

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  ▲ 豊後高田市裸祭保存会が主催する若宮八幡神社裸祭は、正式には「若宮八幡神社秋季大祭」といい「御神幸の川渡し」とも呼ばれる。永保4年(1084)に荒行のひとつとして始められたといわれ、平成18年(2006)で923回目となる。この祭りを見ても、祭神輿は静かに運ぶものではなく、賑やかに練り上げて神と戯れ、神を楽しませるものであることが良く分かる。  

桂川最後の手締め

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  ▲  六尺褌をキリリと締め込んだ輿丁(よちょう)と呼ばれる担ぎ手たちが宮神輿を担いで桂川を渡り、本宮(もとみや)から下宮(しもみや)へ渡御(お下り)して二泊した後、下宮から本宮へ還御(お上り)する夜の川渡神事が最大の見どころとなっている。  
 以後、毎年、地元の清原浩さんが取材され感動写真集に発表していただいている。荒行のひとつというだけあって、重い宮神輿を担いでの桂川の渡河作戦は大変危険で厳しいものがある。

若宮神輿の還御/最後の頑張り

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   丁度褌が浸かる程度の潮位を待って渡御が行われるが河口に近いこともあって、満ち潮が運んできた汚濁した海水で褌は汚れその精悍な姿に心を打たれるファンも多い。3年間の作品が揃っているが毎年感動を新たにさせられる。規模は小さいが、その真摯な心根(こころね)に惹かれる私の好きな裸祭の一つである。  
Wa☆Daフォトギャラリー

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