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 旅紀行ジャパン

2003年7月9日改訂

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2003年7月5日制作

日本最大の鐘楼

知恩院、除夜の鐘試し撞き

日本最大の鐘楼(京都・知恩院)

 2002年12月29日(日)、あと数日で新年を迎えるこの日、浄土宗総本山・知恩院(ちおんいん)を訪ねた。

知恩院

 除夜の鐘と日本一の大きさを誇る三門(さんもん)で有名な知恩院は、祇園祭で知られる京都・八坂神社の東方、東山連峰の一つである華頂山(かちょうざん)山麓にあり、承安5年(1175)法然上人(ほうねんしょうにん)が浄土宗の総本山として開基したお寺である。山号は華頂山といい、「華頂山知恩教院大谷寺」(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)が正式名称である。
 法然上人がこの地で入滅したときには、簡素な庵があるだけの寺であったが、後に秀吉や家康の庇護を受け、現在の壮大な堂宇が構築された。特に、徳川幕府は、ことあらば戦用の城郭に転用すべく多大な援助を惜しまなかったようで、境内の至る所に「丸に三つ葉葵」の紋所が目につく。
知恩院

資料

日本最大の三門

 知恩院三門は、仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無願門」の三つの門を表し、正式には三解脱門(さんげだつもん)という。迷いから解放されようとする者が通らねばならない門とされている。
 元和7年(1621)徳川幕府によって建立された知恩院三門は、高さ24m、間口50mの重層入母屋本瓦葺きで、わが国現存の木造建築の中で最大の楼門である。平成14年(2002)5月23日御影堂(本堂)とともに国宝に指定された。
 知恩院の三門は、石川五右衛門の「絶景かな」で知られる京都・南禅寺の三門(高さ22m)と山梨・久遠寺の三門(高さ21m)とともに日本三大門に数えられる。

注:一方で東大寺南大門、法隆寺南大門、東照宮陽明門を日本三大門と呼ぶグループがある。

日本最大の三門

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 「華頂山」と書かれた巨大な勅額を掲げた門の上には、十六羅漢と釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ 仏教の始祖・釈迦のこと)が安置されている。
 この三門には「棟梁の五味金右衛門が門を大きく作りすぎたので、その責任を取って妻と自殺した」という逸話が残っている。正面数十段の石段の効果もあり、特に大きく感じる。
知恩院三門 A 知恩院三門 B

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御影堂(本堂)

 巨大な三門をくぐって数十段の広い石段を登ると、玉砂利を敷き詰めた境内が広がり、巨大な御影堂(みえいどう)が見るものを圧倒する。
 俗に大殿(だいでん)と称するこの建物は知恩院の本堂で、浄土宗開祖の法然上人の像を安置していることから御影堂の名がある。寛永16年(1639)徳川三代将軍家光によって建立されたもので、建築様式は桃山風の構造に唐様式を加えたもので、間口45m、奥行35mの単層入母屋本瓦葺き。幅3mの大外縁を巡らしている。

御影堂(本堂)

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 御影堂には3000人もの人が収容できるという。御影堂から集会堂、大方丈、小方丈へのびる約550mの廊下は、全て鶯張りになっている。
 三門といい、御影堂といい、徳川幕府の威光を誇示するためか、巨大な建造物が構築され、今日に伝わる。見上げるばかりの大きさに圧倒される。平成14年(2002)御影堂は三門とともに国宝に指定された。

巨大な御影堂

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法然上人

 法然上人(法然房源空 1133-1212)は、浄土宗の開祖である。浄土仏教の元祖は空也上人(くうやしょうにん 903-972)まで遡るが、浄土系の仏教が大きく飛躍するのは鎌倉時代の始め頃からである。
  平安時代の末期、仏教に帰依(きえ)して種々の善行を積めば極楽浄土へ行けるが、そうでなければ血の池や針の山などのある地獄へ落ちるといった論法が行われており、京都の公家たちが多数信者になった。しかし、お寺に寄進などする余裕のない一般大衆は、救われなかった。
  そこで、法然や親鸞らの浄土系仏教の伝道者たちは、「阿弥陀(あみだ)が全ての人々を救済するまでは自分は仏にならない」という阿弥陀の本願を根拠に、その阿弥陀に帰依する心を持って「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と一心に念仏を唱えさえすれば、たとえ悪人でも必ず極楽往生できるという考え(専修念仏せんじゅねんぶつ)を庶民に広めた。 この無条件の本願念仏の教えは、非常に分かりやすく、浄土系仏教は急速に発展していった。

国宝 法然上人像 (知恩院蔵)

法然上人像

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 法然は美作国(みまさかのくに 岡山県)の生まれで、13歳の時比叡山に登り、源光の下で修行を積み、18歳の頃には多くの経典を読破した秀才だった。
  しかし法然は「このような教義で人々を救えるのだろうか?」と疑問を持ち、やがて源光の下を辞して黒谷(くろたに)の叡空の所に移る。
 そこには無冠の聖(ひじり)たちが集まり、厳しい求道の思索に明け暮れていた。法然は黒谷で20年以上過ごし、その間多くの仏典を読み、また一般大衆の集まる祈祷所などに赴いて人々と触れ合った。 
 彼の運命を決定的にしたのは、唐の高僧・善導の著書「観経疏(かんぎょうのしょ)」に出会ったことだった。そこには、極楽浄土への往生を一心に願い、常に念仏を唱えていれば、必ず阿弥陀仏がその者を救ってくれるという思想が記されていた。彼は、会ったこともない異国の善導を師と仰ぐようになった。 
 1175年、法然43歳のとき、この思想を元に一派を立てた。その拠点にしたのは京都東山の吉水(よしみず)に建てた小さな庵で、現在の御影堂のあるところである。 
 彼の教えは、無条件の専修念仏によって全ての人間が救われるというもので、念仏以外の一切の行業が不要となる。それは既成の仏教教団の教えを根底から否定することになり、権威や秩序を支える道徳や倫理に対する根元的な挑戦であった。
 そのため彼は弟子たちと共に激しい弾圧を受けることになった。建永2年(1207)に起こった建永の法難では、 二人の弟子が死罪になり、法然は四国に、親鸞(しんらん)含む数人の弟子が新潟など各地に流罪(るざい)になった。しかしこれは結果的には浄土系仏教を全国に広めることになった。 
 法然は死の直前になって許されて京都に戻り、建歴2年(1212)正月25日、吉水の大谷(おおたに)禅房で数人の弟子に看取られ、静かに入滅(他界)した。享年80歳だった。その後、弟子の証空がその遺志を継いで専修念仏を広め、浄土宗西山派(せいざんは)の基礎を作った。また、弟子の親鸞は、許された後、直ぐには京都に戻らず、関東に赴いて浄土真宗を広めた。

法然上人絵伝

巻三十四段三 摂津・経が島にて諸人聞法の図

 法然上人絵伝は、知恩院に伝わる国宝で、徳治2年(1307)叡山功徳院の舜昌(しゅんじょう)が後伏見上皇の勅命を受けて製作に着手し、十余年の歳月をかけて完成したものである。
 全長548mの長大な絵巻物は、阿弥陀仏の四十八願にちなんで48巻からなる。大和絵の手法で書かれた絵は当代一流の土佐吉光らの画師の手になり、詞書(ことばがき 前書)も後伏見上皇をはじめ天皇や貴族など多数が染筆(せんぴつ 揮毫)するなど、鎌倉末期の一流の芸術家や文化人が総力を結集して作り上げた傑作である。
 内容は、法然の伝記を中心に法語(ほうご 仏の教えを説いた文)や消息などをおさめ、さらに門弟や天皇・公卿から武士・庶民に至るまで浄土教帰依者の往生伝を伝説的要素も含め詳しく描いている。ただし、入滅後に作られたものであるため、そのまま法然の言行とはいい難い。
国宝 法然上人絵伝 知恩院蔵

法然上人絵伝

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勢至堂への階段

 法然が80歳のとき、この地で入滅したことにちなみ、80段の石段が勢至堂(せいしどう)に向かって延びている。その奥に御廟がある。

勢至堂への階段

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大師御廟前

 勢至堂の前を通過し、石段を登り詰めると、左(写真後背)に大師御廟がある。こゝまでくると、昼なお暗く、大師御廟前と表示された石灯籠には既に火が灯っている。

大師御廟前

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崖の上の御廟と拝堂

 崖の上に法然上人の御廟(奥)と拝堂(手前)がある。

崖の上の御廟と拝堂

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 大師御廟前と表示された灯籠付近から拝堂を望む。その奥に御廟がある。

拝堂を望む

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拝 堂

 無人の拝堂内部。中央に参拝者用と表示された座卓が用意されている。誰も監視しておらず、自由に参拝できる。正面に丸に三つ葉葵の扉があり、その奥に法然上人が眠る御廟がある。

拝堂

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御 廟

 御廟は、元祖大師法然上人の遺骨を収めた霊地である。建歴2年(1212)法然上人入滅後、遺骸はこの地に葬られたが、嘉禄3年(1227)叡山の宗徒が法然の墓をあばこうとした嘉禄の法難により、弟子たちは遺骸を西山の粟生(あお)に避難させ、法然の17回忌を期して荼毘に付し、分骨した。
 文歴元年(1234)勢観房源智が師の遺跡の再興を願い出て許され、かっての墓に遺骨を移して廟堂を建て、法然上人が入滅した大谷禅房の跡に勢至堂を造った。これが知恩院の始まりである。
 御廟は、宝形造本瓦葺き、方三間の建物を唐門つきの玉垣をもつてめぐらしたもの。慶長18年(1613)常陸国土浦城主松平伊豆守の寄進により建立された。その後、宝永7年(1710)、當山第四十三世圓理上人が拝堂を建て添えた。
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