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2003年5月9日改訂

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2003年5月4日制作

三重塔と那智大瀧(和歌山県)

三重塔と那智大瀧(和歌山県)

那 智 新 宮 本 宮
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熊野那智大社別宮飛瀧神社

飛瀧神社の石段

お滝拝所入り口

飛瀧神社の石段 お滝拝所入り口

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石段を下りた広場

石段を下りた広場

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那智の滝

那智の滝

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神にませばまこと美はし那智の滝   高浜虚子

3本の滝口 幅13mの那智の滝

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激しく落ちる飛沫の内から合掌する人型が浮かび上がるという。

日本三大名瀑: 那智の滝/紀伊 華厳の滝/日光 袋田の滝/水戸
日本三大神滝: 那智の滝/紀伊 華厳の滝/日光 布引の滝/神戸

熊野 紀伊半島南部一帯をいい、現在の和歌山、三重、奈良の3県にまたがる。紀伊国牟婁(むろ)郡(明治初年に東西南北の4郡に分割)がほとんどであるが、大和国吉野郡南部を含めることもあった。現在、吉野熊野国立公園に含まれる。
 クマノとは霊魂の籠(こも)る地との意味があるらしく、早く《日本書紀》神代巻に、伊弉丑(いざなみ)尊が火神を生むとき灼(や)かれて死んだので、紀伊国の熊野に葬ったとある。
 やがてこの地に熊野三山と称される霊場が開かれると、神秘的な伝承が数多く発生し、死者の霊は遠隔の地からもこの熊野へ行くものだとか、熊野へ行けば死者の霊に会えるとかの信仰を生んだ(熊野信仰)。
 2003年3月15日(土)、1泊2日の日程で熊野三山を巡った。JR三ノ宮駅から新快速で25分の新大阪駅から紀伊勝浦まで特急オーシャンアローで3時間半。那智山行きのバスに乗って約30分、滝前で下車。

熊野詣

 中世、皇室をはじめ公卿、武士、庶民に至るまで熊野三山を巡る熊野詣(くまのもうで)が流行し、熊野街道は蟻の行列のように往来の人々で賑わったので、「蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)」といわれた。
 熊野三山とは、熊野本宮(ほんぐう)大社・熊野速玉(はやたま)大社・熊野那智大社を指し、全国三千有余の熊野神社の総本宮である。
 熊野信仰が起こって以来、三社は一体として扱われているが、起源や主神、経営などは別個の神社である。熊野三山は、これら三社のジョイント・ベンチャー(JV)といえる。
 熊野三山の一つ、那智山の信仰は、神武天皇東征の折りに那智の滝を大己貴命(おおなむちのみこと 大国主命)の御霊代として祀ったことに始まる。
 仁徳天皇の頃、那智山中腹にその社殿を移し祀ったのが今の熊野那智大社の起源である。

那智大瀧

 那智山の入り口に日本三大名瀑/神滝に数えられる那智の滝がある。この大滝は熊野那智大社の別宮で、熊野那智大社の起源となった飛瀧神社(ひろうじんじゃ)のご神体である。
入口の岩に「飛瀧権現 那智大瀧」とある。石鳥居をくぐり473段の石段を下ると、滝の下の広場に至る。
那智大瀧
 JR那智駅の北西約6kmの深い原生林に包まれた那智山は、古くから熊野信仰・観音信仰の聖地とされてきたところで、その山中を流れる渓流には48本の滝があり、那智四十八滝と呼ばれている。そのうちのひとつが那智の滝である。
 那智の滝は、高さ133m、幅13mと日光・華厳の滝を上回る日本一の大滝である。
 那智の滝の滝口は3本に分かれているが、大量の清水が一枚岩を一本になって一気に落下する光景は迫力満点である。
 老杉の生い茂るお滝拝所に立って見上げると、岩壁に砕け散る滝水が飛散し、轟音が耳を圧していかにも霊域らしい荘厳な雰囲気がある。

那智の火祭り

那智の火祭り

飛瀧神社の石段を下る氏子たち

資料

 那智の火祭りは、熊野那智大社の例大祭で、扇祭りとも呼ばれ、毎年7月14日に行われる。
 この例大祭は、熊野那智大社から御滝前の飛瀧神社への年に一度の里帰りの様子を表したもので、12体の熊野の神々を御滝の姿を表した高さ6mの12体の扇神輿に移し、本社より御滝へ渡御をなし、御滝の参道にて重さ50s〜60sの12本の大松明(おおたいまつ)で迎え、その炎で清める神事である。

那智の火祭り(WebNanki) 那智の火祭り

那智滝 なちのたき 和歌山県南東部、東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町の那智山中にある滝。原生林が繁茂する山中には四つの渓流と多くの支流が流入して各所に滝があり、総称して〈那智四十八滝〉という。一般に那智滝といえばこのうち一ノ滝のことで、〈那智大滝〉〈お滝〉と呼ばれ、熊野那智大社の別宮飛滝(ひろう)神社の神体とされる。
 石英粗面岩の断崖を落下する落差は133m、幅は13m、滝壺の深さは10mで国指定名勝。3本になって落下することから〈三筋の滝〉とも呼ばれ、滝のしぶきにふれると延命長寿の効験があると信じられてきた。滝の水は那智川となって熊野灘に注ぐ。
 熊野三山の一つとしての那智山の信仰は、この滝を神聖視することに始まるといわれ、古くから滝修行が行われてきた。《枕草子》にも〈那智の滝は熊野にありと聞くがあはれなるなり〉と記される。歌枕でもあり、西行は〈雲消ゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける滝の白糸〉(《山家集》)と詠んでいる。
《友情出展》

日光華厳滝

撮影:南光 優

華厳滝

華厳の飛沫

華厳滝

華厳の飛沫

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撮影:2000年10月

華厳滝 けごんのたき 栃木県西部、日光市にある滝。中禅寺湖から発した大尻(おおじり)川(大谷(だいや)川源流部)が男体山(なんたいさん)から噴出した溶岩にかかって、高さ約97m、幅約7mの滝となっている。
 中禅寺湖の最深部は水面下163mあるのに対し、華厳滝は97mしかなく、中禅寺湖形成以前の古い大谷川は、現在の華厳滝の位置よりは若干男体山側に寄っていたと考えられる。滝壁は花コウ斑岩の上に集塊岩と安山岩が累重し、上部安山岩の下から湧き出す地下水が華厳滝の途中からカーテン状に流下し、これは十二滝と呼ばれる。
 滝の下部に幅約50m、奥行き約26mの空洞があり、この奥から湧出した地下水も小さな滝となり、大小の滝の浸食作用が加わって、華厳滝は徐々に上流へと後退している。中禅寺湖湖尻にせきがあって大谷川の流れを調節するため、冬の渇水期も通常は水がかれず、厳冬期には凍結した滝の柱がみられる。
 有料のエレベーター下の観瀑台からの眺めがよく、明智平の展望台からは中禅寺湖と滝の両方が見られる。中禅寺湖湖畔とともに名勝に指定され、日光国立公園の中心をなす。華厳滝、荒沢にかかる裏見滝、板穴川の霧降滝を日光三名瀑といい、華厳滝が最もよく知られる。
02
 山岳が重畳し、交通が極めて不便であったにもかかわらず、熊野灘に臨む海岸美に、瀞(どろ)峡、那智滝などの景勝地や、湯ノ峰、湯ノ川などの温泉の存在も手伝って、熊野三山参詣のためにはるばる足を運ぶ人が、古代末期から中世にかけて増大した(熊野詣)。

青岸渡寺三重塔

青岸渡寺三重塔

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 青岸渡寺(せいがんとじ)三重塔は、昭和47年(1972)に再建されたもので、内部には飛滝権現本地千手観音が安置されており、内部の壁面には彩色の金剛諸界仏、観音、不動明王などの壁画が描かれている。
 那智の火祭りは、鞍馬の火祭りと久留米市玉垂宮の鬼夜とともに日本三大火祭りとして全国的に名高い。
那智の八咫烏(やたがらす)

那智の八咫烏

那智の八咫烏(やたがらす)

熊野那智大社神紋

JFA
シンボルマーク

日本代表チーム
エンブレム

八咫烏

 神武天皇が熊野から大和国へ侵攻する際、深く険しい山越えに迷ったとき、天照大神が遣わした3本足の八咫烏(やたがらす)の案内で、無事大和に入ることができたという。
 八咫烏の咫(あた)は長さの単位。八咫(やあた→やた)は大きいということで、大きな烏ということになる。
 三本足は熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すと云われ、智・仁・勇、また、天・地・人を表すともいう。
 八咫鳥は、熊野那智大社の神紋に使われている。
 日本サッカー協会 Japan Football Association のシンボルマークや日本代表チームのエンブレムには1本の足でサッカーボールをつかみ、二本足で立つ八咫鳥がデザインされている。
 同協会はホームページで「日本では神武天皇御東征のとき八咫烏が天皇軍隊の道案内をしたということもあって、烏には親しみがありました。
  旗の黄色は公正を、青色は青春を表わし、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。」と説明している。
03
 三山とは本宮(ほんぐう)(熊野本宮大社)、新宮(しんぐう)(熊野速玉(はやたま)大社)、那智(なち)(熊野那智大社)を指すが、いずれも小都市を形成し、なかでも熊野川河口にある新宮は交通の要地であり、ここには門前町と商工業の市街とが結びついて発展した。
 熊野川を下す筏により山間の木材が新宮に集められ、近世には木材の積出し港としても有力であった。紀伊はもともと〈木の国〉という命名から起こったもので、なかでも雨の多い熊野の地は良質の木材の産地(熊野杉)として名声を高めた。

那智の樟と拝殿

那智の樟と拝殿

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 中世には熊野水軍の活躍がこの地の海岸一帯にみられ、その統率者として田辺(現和歌山県田辺市)の熊野別当(べっとう)が一時優勢を極めた。
 熊野別当は古代末期から中世前期にかけて熊野三山の実質的な統括者で熊野地方の社僧・御師(祈祷師)・武士団の総帥として代々世襲した。
 特に、源平の合戦で源氏に味方した21代目別当の湛増(たんぞう)は、熊野水軍を率いて、壇ノ浦の合戦で源氏の勝利に貢献し、頼朝より御家人に任ぜられ、最上位の僧位である法印に叙せられた。武蔵坊弁慶は湛増の子である。
 近世に入って水軍は途絶え、代わって太地(たいじ)を中心とした捕鯨業が有力となり、その進んだ技術により近世日本の漁業の指導的地位に達したが、明治末には衰微した。

熊野那智大社

 那智は大滝の聖水のもつ生産力への信仰が根源とされ、熊野夫須美(産霊)大神(くまのふすみおおかみ)を主神に祀っている。
 平安時代には神仏習合によって、三山の神々にも本地仏(ほんじぶつ)(本宮は阿弥陀、新宮は薬師、那智は観音)があてられ、仏が神という権(仮)の姿に現れたものとして、三所(十二所)権現(ごんげん)と呼ばれるようになった。 本地仏
 三社ともお互いに三所(十二所)権現を祀りあい、熊野三山として、現世と来世での救いを願う朝野の人々の崇敬を集め、「日本第一大霊験所」を唱え発展してきた。

那智の樟

那智の樟

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 境内の一角に天然記念物の樟(くす)の大木が茂っている。樹高27m、幹廻り(みきまわり)8.3mの巨木で、根元に人がくぐれる空洞がある。平重盛の手植えと伝わり、樹齢約800年と推定されている。

お清めの護摩木

お清めの護摩木

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西国観音霊場第一番札所

西国観音霊場第一番札所

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青岸渡寺

 那智山青岸渡寺(せいがんとじ)は、仁徳帝の頃(4世紀)、仏教伝来のため来日した印度天竺の僧・裸形聖人(らぎょうしょうにん)が那智大滝において修行を積み、滝壷で8寸(24cm)の観音菩薩を感得し、草庵を結んで(建てて)安置したことに始まる。
 その後、推古天皇の頃(200年)、大和の生佛上人が来山し、一丈(3m)の如意輪観音を玉椿の大木に彫り、裸形上人が感得した8寸の観音菩薩を胎内仏とし、正式に本堂が建立された。
 約千年前の正暦年間、第65代花山法皇(かざんほうおう)が3年間那智山で修行し、満願の御礼として佛眼上人を導師に近畿一円三十三観音霊場を巡礼した。
 これを契機に観音霊場を巡拝する信仰が全国に広がり、青岸渡寺が西国第一番札所となり、第三十三番札所・谷汲山華厳寺(たにくみさん けごんじ)まで1300km、早くて1月半、普通は春彼岸から秋彼岸頃までの半年に渡る巡礼が行われるようになった。
 現在の本堂は織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建されたもので、桃山時代の建築様式をとどめ、南紀では最古の国指定重要文化財建造物である。宗派は天台宗。
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大門坂

大門坂

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熊野古道

 熊野古道(こどう)は熊野と伊勢・大坂・和歌山・高野・吉野とを結ぶ古い街道の総称で「熊野街道」とも呼ばれる。

 熊野古道には伊勢路と紀州路がある。大坂から和歌山を経て熊野に至る紀州路は、田辺で熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)と、そのまま紀伊半島を海岸沿いに那智へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)などいくつかのルートがある。

 那智山の大門坂(だいもんざか)は、石畳の立派な道で、蟻の熊野詣と呼ばれた往時の隆盛が忍ばれる。
那 智 新 宮 本 宮
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